高橋一生×岸井ゆきのでドラマ化。恋愛や性行為に興味を持たない男女の“ラブじゃない”コメディ
公開日:2023/7/13
「アロマンティック・アセクシュアル」とは、他者に恋愛的・性的に惹かれないセクシュアリティを意味する言葉である。
アロマンティック・アセクシュアルを自認する高橋と、「恋愛がわからない自分はポンコツなのでは」と悩む咲子による“ラブじゃない”コメディ作品『恋せぬふたり』(吉田恵里香/NHK出版)は、ドラマや映画の脚本を手掛ける吉田恵里香氏によるオリジナル書き下ろし小説である。本作は、書籍より以前に、高橋一生と岸井ゆきのをダブル主演としてドラマ化され、世の中には「恋をしない人間もいる」ことを広く知らしめた。
スーパーの野菜売り場を担当する高橋と、同社の企画営業を担う咲子。二人の偶然の出会いは、周囲を巻き込んで様々な珍騒動を巻き起こしていく。
タイトルにもあるように、高橋と咲子は「恋せぬ」二人である。しかし、男女共に一定の年齢を越えると、「結婚はまだか」「子どもはまだか」と周囲に急かされる場面が増える。「誰しも恋をして結婚するもの」という同調圧力を押し付けられるのは、多大なる苦痛を伴う。その悩みを解消するべく、咲子は高橋に「“恋愛抜きの家族”になる」ことを提案する。高橋は当初その提案に難色を示したが、結果的に二人は「家族カッコ仮」(お試し)という形で、高橋の家で同居生活をスタートさせる。
確率の話をすれば、他者に恋愛感情を抱く人の方が圧倒的に多い。そのため、学生時代からある種の疎外感を覚えていた咲子だったが、自分と同じセクシュアリティを持つ高橋と出会い、「“恋をしない”のは自分だけじゃない」ことを知る。自身のセクシュアリティを自認すると同時に、これまで愛想笑いで誤魔化してきた不快な同調圧力に「NO」を伝える勇気を得た咲子。しかし、世間の風潮は簡単には変わらず、咲子の両親までもが、娘のセクシュアリティに拒絶の姿勢を露わにする。
“「どう考えても無理!お母さん、全然納得できない!」”
咲子の母親の言葉を受けて、高橋が静かな怒りを滲ませながら返した言葉が印象的だった。
“「なぜ僕らが、僕らを祝福、いえ、『そっとしといてくれない人たち』を納得させなきゃいけないんですか」”
高橋の言葉に、大きく頷く当事者は多いだろう。なぜなら、LGBTQ関連の話において、「当事者が周囲を納得させる必要がある」と考える人が一定数いるからだ。それと同じく、「認めましょう」と言う人にも個人的には疑問を呈する。もちろん、前向きな意味合いで言っているであろうことは想像がつく。だが、今一度考えてほしい。「認める」という言葉が、どの立ち位置から放たれているものであるか。他者のセクシュアリティに対して、他者の「納得」や「許可」がなぜ必要なのだろう。そんなもの、必要ない。
本書は、高橋と咲子の視点が章ごとに入れ替わる。もともと自身のセクシュアリティを自認している高橋と、自認したばかりの咲子との間には、様々なすれ違いや問題が発生する。それぞれが抱えるセクシュアルマイノリティゆえの悩みを軸に、互いへの思いや葛藤が交互に描かれることにより、「同じセクシュアリティを持つ人間」=「同じ人間」ではないことがよくわかる。
「恋をしない人間」が「一人が好き」なわけではないし、何を好むか、何を避けるかも人によって違う。セクシュアリティは、あくまでもその人の一部分に過ぎない。
本書にはコメディ要素も多く含まれており、全編通してテンポよく読み進められる。「普通はね……」と偏った一般論を押し付けてくる周囲の人間に対し、理路整然と切り返す高橋の一言は実に痛快だ。特に、咲子に恋心を寄せる「カズくん」に質問攻めに遭った際、高橋が放った一言は印象深い。
“「分かりたいのと、不躾な質問は別ですよ。そんなことも分からないんですか」”
高橋の名言は、これだけにとどまらない。どれもが当事者のみならず、世間の同調圧力に悩んだ経験のある人にとって、支えとなる言葉ばかりだ。
各々が持つセクシュアリティは、「嗜好」ではない。変えようがないもの、本人には選びようがないものだ。多数派が勝手に決めた枠の中で、縮こまって生きなければならない道理はない。本書のラストで咲子が抱いた決意を、多くの人が迷いなく握りしめられる社会であってほしい。その先にあるものこそが多様性であり、多くの人の笑顔につながる世界なのだと私は思う。
文=碧月はる