「男らしさの呪縛」マッチョな男になれない"弱者男性"の苦悩とは【書評】

社会

更新日:2023/7/21

男がつらい! 資本主義社会の「弱者男性論」
男がつらい! 資本主義社会の「弱者男性論」』(杉田俊介/ワニブックス)

 批評家の杉田俊介氏は『非モテの品格――男にとって「弱さ」とは何か』『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か #MeTooに加われない男たち』といった著作を残している。『男がつらい! 資本主義社会の「弱者男性論」』(ワニブックス)もまた、広義のジェンダー論を扱った本であり、先出の2作と共振する内容だ。

 まず、「弱者男性」の定義を提示すべきだろう。その意味するところは論者によって異なるが、杉田氏の著作では、経済的貧困、失業、労働の非正規性、容姿、コミュニケーション能力、パートナーの有無などが挙げられている。その典型例として杉田氏は、映画『ジョーカー』で、ピエロに扮して暴行を働いた主人公アーサーを、複合的な弱者男性のシンボルと位置付ける。

 弱者男性の辛さは複数あるが、筆者が連想したのは「男らしさの呪縛」。杉田氏もまた『ドラえもん論』でジャイアンの苦悩に言及している。映画『ドラえもん のび太の大魔境』では、ジャイアンが自分の失敗を男らしく背負おうとするが、それができずに一人でもがき苦しむ。のび太たちに自分の弱さを見せられず、陰で一人泣いているのだ。

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 男らしくない、男なんだから、男のくせに、といった言葉は今も耳にする。本書では、精神科医の松本俊彦氏の論が引かれており「泣いたらいけない」「強くなければならない」という圧力が、男性を苦しませるひとつの原因であると述べている。男性の自殺者数は、ここ数年はおおむね女性の2倍程度で推移してきたが、男性たちは総じて、うつ病やアルコール依存症であることを認めたがらない傾向があるそうだ。

 マッチョな男にもスマートなリベラルにもなれない弱者男性の辛さ。そこにフォーカスした記述には、言われて大きく頷いた。杉田氏によれば、そうした男性は、自らを語りうる適切で妥当な言葉を持てていないという。

 杉田氏は、映画『ドライブ・マイ・カー』を例にとり、ひたすらつまらない人生が続いても、誰も傷つけず忍耐して生きろ、という。孤独を否認してヘイトに走ったり、男性特権に居直ったりするのは、絶対に間違っているのだと。

 ただただ、あるがままに生きろ――杉田氏が放つメッセージの要点はこれに尽きる。日々がひたすら退屈でも、救済も解脱もなくても、承認欲求を得られなくても、自己も他者も誰も傷つけることなく「ただ生きる」こと。それが弱者男性の尊厳に繋がるのだからと、いうわけだ。

 それは、迂回しながらかろうじて着地した、杉田氏なりの達観の境地である。そして、筆者が連想したのが、呉智英氏が『自殺したい人びと』(宝島社)というムックに寄せた文章だ。自殺をポジティヴな行為だというライターの鶴見済らを傲慢だと断じ、こう書いている。

社会を構成する大多数の人にとって、さして面白くない日々が延々と続くのは当たり前なのだし、そうした人たちが無力であり、そのひとりがいてもいなくても世界も歴史の大勢に影響がない(中略)長い人生のうち99%は輝かしいはずがないし、さして重要な意味もないし、世界も歴史にとっても一個人の人生を祝福してくれるわけはない。それでも、長い人生のうち1%ほどは何がしか輝いて見える日もあるだろう。世界や歴史にとってまるで意味がなくとも、ごく身近な友人や近親者には何かの意味があるだろう。人はそのようにして生きているのだ。

 この呉氏の文章は、杉田氏の記す情緒的でエモーショナル極まりない言葉と響きあっている。自分の生活をありものだけで切り抜け、誰かを殺さず憎まず、平和に静かにほろびゆく、その虚しさをまっとうするべきだ。杉田氏の主張はそのようなものだ。最終的に杉田氏が出した結論としては、いささか暫定的で一時的だと思うところもあるが……。

 だがしかし、杉田氏の切実さと誠意と覚悟が滲出する文章に、筆者は落涙を抑えきれなかった。ページを捲るたびに、様々な感情が押し寄せてきて、決して平然としていられない。おそらく、杉田氏もこの部分では、自ら書きながら感極まっていたのではないか。

 一人称が「ぼく」だった杉田氏の語りは、熱を帯びていくと同時に「おれ」へと切り替わる。正直、彼の結論は予想だにしないものであった。だが、杉田氏が苦心惨憺しながら辿り着いたであろう、この結論部分を読むためだけにでも、本書を手に取る価値があると思う。

文=土佐有明