私の身体はガラスでできている。ガラス妄想や自分は死んでいる妄想など『妄想の世界史 10の奇想天外な話』が面白すぎる
公開日:2023/7/19
「自分は死んでいる」と信じ込む人間、「自分はバターだ」と思い込んでパン窯の近くに寄ろうとしなかったパン職人、「自分の体はガラスでできている」と言って聞かない人間……。実は、世の中には様々な妄想に取り憑かれた人間が多くいるらしいのだ。『妄想の世界史 10の奇想天外な話』(ビクトリア・シェパード:著、柿沼瑛子:翻訳/日経ナショナル ジオグラフィック)には、そんな妄想に真剣に悩んだ世界中の人々と、彼らを治療しようと奮闘した医師たちの歴史を学ぶことができる。
毛布にくるまり、歩かず、座らず、近づかずの「ガラス妄想」
本書には自分がガラスになってしまった妄想に取り憑かれた人間の話が出てくる。ガラス妄想の症状に悩まされる人間は意外と多いらしい。彼らは尻が砕けるのを恐れるあまり毛布で体を包んでいたり、藁で全身を覆って衝突を避けたり、うっかりガラスの足が砕けないように歩こうとしなかったり、他人を遠ざけるように配慮していたり、という嘘みたいな話が書かれている。
そのうちの1人の男がガラス妄想から解放された話がある。
ガラス妄想に取り憑かれ全身を藁で包んでおり、医者がその藁に火をつけた。するとガラス妄想の男は慌てて扉をバンバン叩き、外に出すように叫んだらしい。医者は男を外に出してからこう言った。
“あなたの体がガラスでできているのなら、どうしてドアを叩いたときに砕けなかったのですか”
するとたちどころに男のガラス妄想が治ってしまった。
このガラス妄想の事例にはいくつかの示唆がある。1つに、自分の体がガラスでできていないという証明を自身でするのは、リスクがあってできないということ。ガラスが砕ける心配があるため、容易に反証できないのだ。一度思い込んでしまったが最後、自分自身で抜け出すことは難しいだろう。
2つに、彼らは決して非論理的ではない、ということである。医者に言われた一言に、ドアを叩いても手が砕けなかった事実=ガラスではない、という論理的思考をすんなり受け入れているのだ。妄想というと、非論理的で、普通では信じがたいことに執着してしまっている様子を想像しがちだが、彼らは自分の中の確固たる論理、根拠の上で思考し想像しているのである。
論理的な反証によって治癒する例があるように、反対に彼らの妄想が、自身の論理的な思考の末に辿り着いた、彼らにとって現実的な考え方であることがわかってくる。
しかし、中には「ほら、今の衝撃で体が砕けなかったのだから、君はガラスじゃないんだよ」と諭しても、「いや、強度のあるガラスだっただけだ」とガラスであることを否定しないパターンもある。すべて自分の中の論理が保たれている限り、彼らはガラスであり続けるし、反対により納得できる別の論理が提示されれば、容易にガラスではなくなるのだ。
妄想に取り憑かれた人は、そうでない人が客観的に見れば、到底理解できないおかしな人間だと不気味がるかもしれない。その不気味さは、自分の論理とは異なる考え方をしている→理解できない→不気味だ、という手順を踏んだ考え方だと思う。しかし、自分の論理も他人の論理もまた、その人特有の境遇、これまでの人生から学び取った考え方がもとづくのだから、異なるのは当然なのだ。
事例として紹介した「ガラス妄想」も、発症に至るまでの経緯を辿れば、その考え方もわからなくもない…と納得してしまうケースもある。誰もが、人生の中で獲得した論理の中で生きている。人生が異なれば、論理も異なる。自分の論理だけがすべてではない、と痛感させられる1冊だ。
なぜ自分はガラスだと信じ切ってしまったのか? どうして自分はギロチンで首を落とされたと思い込んでしまうのか? 何が彼女に、自分の夫と子が毎日別人に入れ替えられていると妄執させてしまうのか……?
彼らの人生を見れば、彼らの論理がわかる。その一見すると理解しがたい妄想癖と、その原因。それを突き止めようとした医者たちの奮闘を、是非その目で確かめてほしい。
文=奥井雄義