ラランド・ニシダ 小説家デビュー。作者が仕掛けた、「遺影」を作る主人公のいきすぎた“貧乏”アピールについて掘り下げてみる
公開日:2023/8/3
年に100冊の本を読む読書芸人として知られる、お笑い芸人ラランドのニシダが初小説『不器用で』(ニシダ/KADOKAWA)を書き上げた。不器用な人に読んでほしいと著者が言う本書は、器用に生きられない人たちをテーマに5篇の短編小説で構成されている。
1篇目の「遺影」は、いじめを受けるある女子の遺影を作るように言われた中学1年生の僕が、彼女が自分と同様に貧乏であることから同情し困惑しながらも、結局遺影作りに着手してしまう話だ。これが強烈だった。
本書は一回読むだけにとどめるにはもったいない、是非再読をおすすめしたい本だと思った。読めば読むほど1回目では気づけなかった味が出てくるからだ。
主人公が抱える、いきすぎた「貧乏コンプレックス」とは
「遺影」を考察してみることにする。
物語の軸は「いじめを受けている女の子の、遺影を作る話」である。読書1回目はそれくらいの理解だった。あらすじ通りに読み、額面通りの理解を得た、という印象だった。
2度目には、残酷ないじめを受けているはずの女の子の感情が、ほとんど見えてこないことに強烈な不気味さを覚えた。中学1年生の僕という主人公の目線で語られているため、これの意味することはつまり、「主人公の僕がいかに自分を世界の中心だと思って生きているか」ということだった。
3度目になると、今度は主人公の僕がいかに「貧乏コンプレックス」に陥っているかに気づくことができた。本筋には直接関係のないと思われる文章のそこかしこに「貧乏コンプレックス」がねっとりとへばりついているのだ。
もちろん、主人公の僕が貧乏である描写は読めばすぐにわかる。何なら何度も直接「貧しい」と暴露している。ただ、それだけでは「貧乏コンプレックス」は成立しない。本筋ではない部分を丁寧に読むと見えてくるのだが、彼は貧乏であることを知りながら、あまり気にしていないという風を装っているように見えるのだ。
「新品を買えば良いのに」の短文に隠された真意
例えば、主人公が小学校5年生の時に作った迷彩柄のエプロンを、母が大事そうにつけて夕飯の支度をしていることに対して、こう感想を述べている。
“新品を買えば良いのに。古くて汚いエプロンで作るご飯は不味そうに思える。”
しかしその後、食事シーンはこの話に出てこない。つまり、本人は上のようにぶっちゃけているが、実際に食事がどうこう真剣に論じたいわけではないし、「不味そうに思える」と言っているだけで「不味くなる」と断定しているわけでもない。そしてエプロンなんてものは、つけてもつけなくても味は変わらないのだから、古くて汚ければ「捨てればいいのに」でいいはずなのだ。ところがそれをわざわざ「新品を買えば良いのに」と、感情の吐露を示すように、印象的な短文を挟むことにとどめている。僕にはこう聞こえた。
「エプロンが古く汚くても使い続けてくれるのは、何も新品のエプロンを買う余裕がないわけではなくて、母の愛が感じられるからいいでしょ」と。貧乏な家庭に生まれた中学1年生の強がりに見えてしまうのだ。ここに「貧乏コンプレックス」が見える。
他にも、「貧乏」に特別着目して観察すれば、貧乏を思わせる文章や、自分が貧しいことを卑下する文章で溢れていることに気がつく。中学1年生の目線で語られているからこそ、強がる気持ちが漏れてしまっていることも、実にリアルである。
しかし、ここで僕は、はたと思い当たって立ち止まることになる。中学1年生の「貧乏」披露にまんまと乗せられているような気がしたのだ。ちょっと貧乏アピールが過ぎるのではないか、と。例えば、次の文章に僕は頭を抱えることになる。
“金の心配はかけまいと、僕はサッカー部に入った。”
実はこの家庭、いじめられている女の子と同様、給食費を払っていない。その状況で家の負担を考慮した結果、サッカーをする選択肢になるのはなぜか? また、兄と姉がちゃっかりスマホを持っている点など、彼の「貧乏」を額面通り受け入れることに、やや疑問を覚えはじめていた。そして、僕はある一つの結論に辿り着くことができた。順に説明する。
ほとんど自虐的、自ら貧乏に突き進む果てのない暴走
遺影の額縁に入れられようとしているその女の子がいじめられるようになった原因は、まさに彼女が極貧であることにあった。それを暴露し、いじめを発生させたのは、主人公の僕だ。貧乏ゆえの観察力で、その女の子が貧乏であることを嗅ぎつけたわけだ。しかし、そのいじめの原因を暴き出した罪悪感と責任感から、自分がいかに貧乏であり、自分が、女の子のいじめの原因である貧乏と同義であるかを、ほとんど自虐的に、自ら貧乏に突き進み果てもなく暴走しているのではないかと思えたのだ。
要するに、中学1年生の僕は、彼が言うほど実は貧乏ではない。しかし罪悪感から自らを貧乏の底に貶めることで、罪から逃れようとしている、ということだ。
僕はこの物語に深く深く潜った末に、「不器用」で「貧乏」だと押し売りする中学1年生にずっと嘲笑されていたのだと、思わず膝を叩いた。僕は読みながら、中学1年生の掌で踊らされていたのだ。しかし奇妙にも悔しさや憤りなどはなかった。
著者自身の考える「貧乏」について掘り下げてみる
本書を超えて著者自身にまで、もう少しだけ掘り下げるとどうだろう。著者は帰国子女であり裕福な家庭の生まれである。しかし現在、「両親に電話料金を支払ってもらっていること」や「毎月仕送りをもらっていること」などの状況を加味するとどうだろう。つまり、貧乏ではないが、貧乏アピールをしたほうが好ましい立場にあるのだ。これも本作への関連性があるのかもしれない……と深掘りは止まらない。
ああ、なんて味の尽きない物語なのだろう。こういう丁寧な読み方ができたのは実に高校生ぶりである。電子書籍も一般的になった今、言うべきことではないかもしれないが、この本はペンや鉛筆で、汚してこそ意味がある本だと思った。ペンが味付けしてくれる不思議な本なのだ。線を引く箇所を1行変えるだけで、以前読んだ時とはまったく異なる気づきを得られるだろう。本書を読む際は、鉛筆を片手に読むことを推奨する。ただし、手先が不器用で、本書に線を引いて読みながら、あれあれと鉛筆を落とすことひっきりなし、なんてことになっても、もちろん責任は取れない。僕は誰彼構わず人助けしながら生きていけるほど、器用な人間ではないから。
文=奥井雄義