自殺するくらいなら人を殺してから?嫉妬・復讐・侮蔑などがもつれ合う世界が生々しすぎる『わたしたちに翼はいらない』

文芸・カルチャー

公開日:2023/8/18

わたしたちに翼はいらない
わたしたちに翼はいらない』(寺地はるな/新潮社)

 いじめ、自殺、復讐、嫉妬、侮蔑……あらゆる立場にある人間の機微を丁寧に掬い上げ、表立っては言えないが確実に存在している人間のどす黒い部分を見せてくれる小説『わたしたちに翼はいらない』(寺地はるな/新潮社)が発売された。

「わたしたち最強だったよね」10代の感情を今でも懐かしむ人たち

 本書には明確な主人公は存在しない。複数の人間が、それぞれの視点で自分たちの生きる世界を語るスタイルだ。4歳の娘を育てるシングルマザー。その娘と同じ保育園に娘を預ける専業主婦。不動産関係会社に勤務する独身の無口な男。彼らの夫、父、母、娘……。そういった複雑な人間関係が巧妙に交じり合う、狭いが色の濃い世界が舞台である。

 彼らの中には、学生時代に青春を謳歌していた人たちと、彼らにいじめられていた人たちが含まれている。前者は「わたしたちあの頃最強だったよね」と懐かしみ、後者は「毎日びくびくしていた」と言って苦々しくなる。そんな彼らが大人になった世界を描く。

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第一章で自殺しようとしていた男、殺しに急転換

 第一章の時点で早くも、園田という名の男が、15階建てのマンションの最上階におり、銀色の手すりを乗り越えようとしている。まだ園田という人間をほとんど知らない読者からすると、彼がどんな人間かろくにわからず感情移入できないまま亡くなってしまうのか、と驚くかもしれない。

 しかし、ここ数週間の記憶がぶわっと蘇り、園田はある野望を思い立つ。

“唐突に「死んでもいいけど、どうせなら殺してから」という考えが浮かぶ。おれは「死んでもいい人間」かもしれないが、あいつは「死んだほうがいい人間」だから。”

 これは、園田がその男を殺すまでを描いた話なのかと読者は思うだろう。さあ、どんな殺し方をしてくれるのか、自死しようとしていたくらいだから、捨て身でやってくれるだろう。どこで? いつ? 相手はどんなやつ? と文章を通して犯罪を目の当たりにする恐怖と高鳴りを抑えつつ、読み進めることになる。

 しかし、園田は、一向に殺害をする気配がない……。ただ代わる代わる視点を請け負う、登場人物たちの見る世界を眺めながら、気が付くのだ。これは「園田の殺し」を追うだけの単純な殺人劇ではないのだ、と。

示唆に富んだセリフの数々に、彼らが血肉のある人間だと気づかされる

 本書には、思わず目を覆う惨たらしい殺人も、大事件も、危なっかしいアクションも存在しない。しかし、ただの日常が、いかに愛憎や嫉妬や悲しみ、憂い、好意などの複雑な感情によって成り立っているかを、まざまざと見せつけてくれる。大胆に主語が切り替わっていくことで、彼らの素直な感じたままの思いの渦にいやおうなく巻き込まれていくからだ。また、子どもや両親、義父、義母との関係ももつれこんできて、様相はさらに複雑になっていく。

 果たして園田は件の男を殺すことができるのか、という興味は頭の片隅にありながらも、彼らの生きるリアルな世界に流されていく。やらなくてはならない大事なことがあるが、せわしない日常に忙殺されている、そんな感覚を読者は抱いてしまう。彼らの示唆に富む心情によって、読者は彼らの日常の中にめり込んでしまう。

“母は「女の子は勉強なんかしなくていい」と言った。頭の切れすぎる女は、そしてそれをひけらかす女はかわいくない。かわいくないと愛されない。愛されないと幸せになれない。”

 夫が、バカっぽい女と浮ついたメッセージのやりとりをしていることに気づいた妻の心のうちだ。自分もバカを演じてきた妻だからこそ、そういった女に浮気される苦々しさは相当なものだろう。ちなみに、この夫を、園田は殺したいと思っている。

“息子に「結婚はいいものだ」と語る資格が自分たちにはあると、どうして信じられるのだろうか。あれほどいがみあい、醜く罵り合う姿を見せておいて。”

「結婚しないのか」と父に言われた時の園田の思い。自殺しかけ、殺人を決意した人間も、親に結婚について問われると、ちゃんと考えてしまうことに自然さを感じる。

“「父さんのことは気にしなくていいから」
 父の口癖だ。よりいっそう娘を縛りつける言葉であることを、父自身は知らない。(中略)こんなに良い父親をないがしろにしたら、周囲の人はいったいなんと言うだろう。”

 幼い頃に母を亡くした女の子が、成長し親になって気づいたことだ。

 すべてに共感するとは言わない。しかしそれは当然だ。人間は、シングルマザーであると同時に、自殺未遂をした孤独な男にはなれないのだから。それぞれの立場によって考え方も感情も異なるだろう。しかし、それでも心に迫るものがあるのは、登場人物の育った環境や現状、人間関係をうまく読み込ませる筆力が著者にあるからにほかならない。あなたは、園田に共感し、あいつを殺したいと思うだろうか? 是非、本書を読んで確かめてほしい。

文=奥井雄義