どこでも晩酌/絶望ライン工 独身獄中記②

暮らし

公開日:2023/8/30

絶望ライン工 独身獄中記

最近引越しをした。住んでいた古いアパートが地上げに遭い、取り壊されるため立ち退きを迫られたのだ。
立ち退き料はたしか70万円ほどだった。高いか安いかは自分ではわからない。
期限までに引越し先を見つける必要があり、随分と難儀した。
日中は仕事、夜は趣味の動画作りに励みつつ、新居を探す。
なかなかの地獄であり、ビールでも飲まなければやってらんねえやい、べらんぼうめ、となるわけである。

かくして引越しは終わり、新居にて新しい生活が幕を開けたが、どうにも希望の船出というわけにはいかない。
生活圏が変わり、毎日行っていたスーパーが変わり、豆腐のブランドが変わり、全てが変わる。
人間である私はまぁ納得できるが、今まで命を賭して守ってきた縄張りが変わる、これは柴犬にとっては大打撃である。
余談ではあるが、私は柴犬と一緒に暮らしている。いいだろハァン。

しかし悪いことだけではない。この絶望ジャーニーはポジティブな一面もあるのだ。
まず、賃料が上がる代わりに少し広くなった。
具体的には炊事場が随分と使いやすくなり、これまで封印してきた揚げ物なんぞもできそうである。
そして何より──これは本当に素晴らしいことなのだが──風呂を沸かすようになった。
独り暮らしが長いが、初めて「バスタブに湯をためて入りたくなる風呂」に出会ったのである。
ユニットバスやシャワー室にバスタブが転がっているのではなく、それは「浴室」であった。
この風呂に入るのをとても楽しみに暮らしている。

風呂に入った後はビールを飲むのが正しい。
新居ではビールを飲む場所がたくさんあります。
6畳の居間、板張りの玄関先、炊事場で台所晩酌もいい。
窓を開けて風に当たりながら飲むのも旨い。
まさに家中どこでも晩酌できる私だが、ついに極上アクティビティを見つけた、というか出会った。
それは、「洗濯機晩酌」です。
洗濯は嫌いだが、回る洗濯機が好きである。
洗濯機は作動中ロックがかかるが、私は以前よりこの機構を粉砕し、いつでも蓋を開けられるようにしていた。
もちろん回る洗濯物を見たいがためである。
そして新居には洗面所が独立しており、室内に洗濯機を置くことができるのだ。富豪か。
ここで、冒頭の立退料70万円の出番となる。
敷金礼金や引っ越し費用を払った残りで、私はついに洗濯機を新調した。
ドラム式ではなく縦型なのに蓋が透明で、中が覗けるタイプの最高のやつです。
それも「インバータ」による低騒音スーパークルーズ機能を備え、夜間哨戒も問題なく、同時に9000gまでの処理が可能な夢のマシンである。

かくして洗面所は私にとって最高の晩酌場所となった。
パイプ椅子を置き、泡を立てて回る洗濯物を眺めながらビールを飲る。
夏の用水路のような水音と駆動音、柔軟剤の香りにつつまれ、たいへんな夢心地だ。
脱水中遠心力で張り付いている様も実に趣がある。
円を描き張り付いたまま秒速12.5kmで高速回転する洗濯物は木星のような美しさで、観測者を魅了する。
アクリル越しにそれを眺めれば、気分はさながら惑星探査機カッシーニだ。
この見下ろす天体観測が終わるころ、短形波で鳴り響く終末のアラーム。この旅が終わり、あとは深夜のレディオでもかけながらご機嫌に洗濯物を干すってわけ。
夜の洗濯がこんなに楽しいものだとは、知らなかった。

こうして私の宵は廻る。

<第3回に続く>
絶望ライン工(ぜつぼうらいんこう)
41歳独身男性。工場勤務をしながら日々の有様を配信する。柴犬と暮らす。