「エリックサウス」を手掛け、南インド料理を日本で流行らせた男の「食」ノンフィクションエッセイ。生々しい飲食店裏話や、料理人の本音の数々に舌を巻く

文芸・カルチャー

更新日:2023/9/27

お客さん物語 飲食店の舞台裏と料理人の本音
お客さん物語 飲食店の舞台裏と料理人の本音』(稲田俊輔/新潮社)

 東京八重洲地下街に店を構える「エリックサウス」を手掛け、南インド料理を日本で流行らせた男、稲田俊輔。料理人かつ飲食店プロデューサーであり、そして「食」を溺愛する一介のお客さんでもある。

お客さん物語 飲食店の舞台裏と料理人の本音』(稲田俊輔/新潮社)には、そんな著者が体験したり目撃したりした「食」に関するエピソードの数々が綴られている。カレー屋で、時にはラーメン屋で、またある時は高級イタリアンで、はたまたバーで、あるいは喫茶店で……それは時に生々しい裏話であったり、飲食店をより楽しむ秘技であったり、飲食店で繰り広げられるお客さんたちのドラマであったりする。

 エピソードはほぼすべてが1話完結で描かれており、すっきりと読みやすいため、間食みたいに気軽に味わうことができる。早速、実際に描かれたエピソードの一部を紹介しよう。

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『お客さん物語 飲食店の舞台裏と料理人の本音』を試し読み

かつてのアルバイト先で、お客さんとして訪れた店で……飲食店は人間ドラマだらけ

 平成初期のクリスマス、一晩に10万円くらいをやすやすと使っていた時代のことで、著者がイタリアンでアルバイトしていた時の話だ。人々が浮かれるクリスマスのタイミングには、平常時とほとんど変わらないメニューにちょっと豪華な名前をつけた謎めいた一品を追加するだけで値段を倍くらいに設定されており、著者は驚きを隠せなかったそう。また、通常時とは異なる層のお客さんが来店するため、少し量を減らしてみたり、飾りつけの海老の殻は洗って何日も使いまわしたり……と、著者もびっくりしてしまった当時の強烈な裏話が披露されている。当時の人たちが何を幸せだと思って生きていたか、その考え方は現代に至るまでどのように変化していったのか、考えさせられる。

 また中には、身近で起きればピリッと緊張してしまうような話もある。

 何よりもコスパを重視する若者が、豪勢なサラダバーをもりもりと食べ漁り、メインである巨大なスペアリブは持ち帰りたいと申し出る場面に、著者は客として訪れた飲食店で出くわす。これは、飲食経営側の利益構想と真っ向から対立する提案であり、やすやすと受け入れられないものだった。この後の展開や、傍で聞いていた料理人としての著者の見解が、実に勉強になる。コスパばかりを追求して、作り手の心を踏みにじり誰かを不幸にしていないか、と我が身を省みるような話だった。

 第3章で語られる、著者のお気に入りのカフェで目撃した話も面白い。

 いわゆるサードプレイスとして利用していた行きつけのカフェに、マルチ勧誘がうようよ湧くようになった時の話だ。いかにもな美男美女が、無垢な人たちを騙そうと言葉巧みにマルチ勧誘をする場面に何度も出くわし、そのたびに仕事そっちのけで、熱心に事の顛末に見入ってしまう様子が描かれる。我慢できずに助け舟を出してしまうのは、飲食店でそれが行われているからなのか、あるいはただ単に正義感が強いからなのか。

 また、英国式パブの話では、そのパブ内のヒエラルキーのトップに位置する、ダーツに興じる英国人たちと、若い日本人女性たちが描かれている。J子と呼ばれる日本人の女の子が、付き合っていた英国人マイクに浮気をされ、眼を泣き腫らして店にやってくるシーンが良い。マイクと言葉が通じないため、J子はマイクのすべての行為をいいようにばかり解釈して自分を納得させているのだが、著者はそれをあえて指摘しようとはしない。言葉少なにJ子に寄り添う様子が胸にしみた。

「舌」に訴えかけてこない料理本

 この著者、実は飲食店に行く理由が「飯を食う」ではなく「人を観察する」なのではないかと思うほど、周りの人々の一挙手一投足を眺めている。そして、マルチ勧誘を目撃した時は助けたいと思って行動してしまい、明らかにおかしなことを言ってお店を困らせているお客さんがいれば反論したい気持ちを必死に抑えている。「食」と「お客さん」を描きながら、その実、著者本人の人間性が、旨い料理みたいにありありと滲み出ている一冊なのである。

 全編を通して言えることは「料理を通して人生を豊かにする」方法が隠し味のようにそこかしこに仕込まれている、ということだ。この料理に関する本書は、拍子抜けするほど「舌」にはあまり訴えかけてこない。代わりに「心」に訴えかけてくる。料理人の思いや、お客さんの思いが心に流れ込んでくる。ただ、味が美味しい料理を食べることがすべてではないことに気づかされる。料理人やお客さんを含めての「食」というものを通して、人生を豊かにすることを伝えたいのだと思った。

 あなた自身や、身近な人に似たお客さんが本書に登場しているかも……。是非本書を読んで探してみてほしい。

文=奥井雄義