40歳既婚者と20代青年の恋を描く『シジュウカラ』完結。登場人物への想い・ジェンダー観を語った 作者・坂井恵理さんインタビュー
公開日:2023/9/1
坂井恵理さんによるマンガ『シジュウカラ』が5年間の連載を経て完結した。40歳既婚の売れないマンガ家と18歳年下の青年アシスタントによる恋愛を描いた本作は、2022年にテレビドラマ化、第23回文化庁メディア芸術祭・審査委員会推薦作品にも選出された。
本記事では作品を描き終えた坂井恵理さんに単独インタビューを実施。作品のことはもちろん、ジェンダー観や次回作への想いなど、たっぷりとお話を伺った。
(取材・文=立花もも 撮影=桐山来久)
――主婦であり売れないマンガ家でもある忍と18歳年下の青年アシスタント・千秋の恋。設定はセンセーショナルですが、身近な人や社会の価値観に傷つけられながらも、どう生きていくかをさまざまな角度から描いている作品だなと思いました。
坂井恵理さん(以下、坂井) 私自身、ここまで物語をふくらませられるとは思っていませんでした。人気がなければすぐに打ち切られてしまうので、描きはじめた当初は、2巻くらいまでの展開しか考えていなかったんですよね。電子でもウケるように、当時人気のあった「不倫」と「年下男性の恋」をかけあわせてみよう、主人公は私自身ではないかと読者が勘違いしてくれるような40歳の中年女性で売れないマンガ家ということにしよう、ということくらい。18歳という年の差も、どうせならひとまわりと言わずもっと下にしよう、でも未成年は抵抗があるから20歳を過ぎた青年で……と。
――あとがきにも書かれていましたが、かなり綿密に「読まれる」ことを考えて設定していらっしゃいますよね。
坂井 千秋が性被害にあった過去を持つ青年である、というのも、女性が経験するのと似た痛みを持つ子のほうが私も寄り添いやすいのではないか、とやはり頭で考えて決めたことでした。でも、いざ彼を描こうとすると、女性に比べて男性の性被害のほうがたいしたことないと思われてしまう側面がある、ということを無視できなかったんですよね。恐怖も嫌悪も、女性が経験するそれと変わりがないはずなのに「でもお前もいい思いをしたんだろう」という声は女性以上に出やすく、口をつぐまされてしまう部分もあるでしょうし、当人すら「自分は女性みたいな傷つき方はしない」と現実から目を背けてしまうこともあるのではないか、と。
――千秋は、忍の夫の不倫相手の息子で、そのせいで家庭が崩壊したことで忍を恨んでいる。当初のその設定だけでも読み応え十分なのに、彼の傷がひとつずつ明かされていくうち、胸が痛くなってしまいました。
坂井 3巻が出たあたりでドラマ化の話が持ち上がって、もしかしたらもっと描けるかもしれない、と希望が見えたんですよね。であれば、性被害の部分についてもしっかり向き合おうと思いました。正直、そこまで千秋に深く踏み込む前は、彼が何を考えているのか、どういう人間なのか、私もつかみかねていたんですよ。でも、性被害を受けた経験のある方は、無意識に「自分」というものを抑圧して、先ほども言ったように傷から目を背けて、感覚を麻痺させることでどうにか生き延びていくことも多いと聞きます。もしかしたら千秋もそうだったのではないか、空虚なものを抱えて生きていたから、最初は私自身ですらその心に触れることができなかったのではないか、とあとから思いました。そして今作は、千秋が自分を取り戻していく物語でもあったのだと。
――やはり性被害経験のある、みひろという女性が登場します。彼女が忍と出会ったことで、性の介在しない関係のなかでの救いを見出していく過程に、泣きそうになってしまいました。
坂井 みひろは千秋に対する執着心が強かったせいか、登場させたときは読者からの反発が強くて。でも性被害を扱うのであれば、圧倒的に数として多い女性のこともやはり描かなければなあと思ったんです。実をいうと登場させた時点では先の展開をあまり考えていなくて。現実はこんなに簡単に解決しないかもしれないけれど、どうにか彼女の物語を着地させられたとき、ラストまでの道筋が見えたような気がします。
――この物語はやはり、忍がマンガ家として、一人の人間として、自分の足で立って歩くことを知る過程に重みがあると思うんです。それだけでなく、千秋の母・冬子をはじめとする他の女性たちの傷つき、苦しみも、物語を追うにつれて丁寧に掬いあげられていくのを読んで、こちらも救われたような気持ちになりました。
坂井 冬子については、かつてコギャルと呼ばれた子たちは今どうしているのだろう、と考えたのがきっかけです。女子高生はそれだけで無敵とされていたあの時代と同じ感覚で、「女っておいしいよね」というメンタルのまま40代になった今も生きている人たちはいったいどれほどいるのだろう、と。ただ、こんなにも出番の多いキャラになるとは思っていませんでした。実は最初は名前も決まっていなくて、ドラマ化の際に聞かれ、苦しまぎれに「冬子」と答えたことで、改めて人格が生まれた気がします。そんなふうに、忍と千秋以外のキャラクターにも深く焦点をあてられたのは、長く続けられたからこそですね。忍の夫・洋平のことも、思いがけずちゃんと内面を描けましたし。
――モラハラ夫の洋平には、読みながらだいぶ腹が立ってしまいました。でも、何があっても絶対に謝らず、とりあえず下手に出ておけば万事解決すると思っている感じとか、めちゃくちゃリアルでした。
坂井 洋平が「殴らない」というのは、最初から決めていたんですよ。千秋のお父さんのようにすぐ殴る人のほうがDV男としてイメージされやすいと思うんですが、肉体的な暴力だけではなく、精神的・経済的にダメージをおわせるDVもあるのだということを、しっかり描きたかったんです。それに、暴力以前の些細な積み重ねで妻にうんざりされている夫のほうが、世の中には多い気がするんですよね。殴るわけじゃない、浮気も……実は洋平はいっときしていましたけれど今はしていないし、家族をちゃんと養ってもくれる。だけどなんかモヤモヤする、傷つけられたような気がする、という思いを描くことで、共感してくれる読者も多いんじゃないか、と。
――身近のいろんな男性を思い浮かべてモヤモヤしていました(笑)。なんでお前が被害者みたいな顔してんだよ……とか。
坂井 もちろん私も「こういう男むかつくよなあ」という思いもあったんですが、「私が男だったら」と置き換えて描いていた部分もあります。私がエリートのイケメン男性だったら、という発想で描いた『ヒヤマケンタロウの妊娠』と同じですね。男社会で理想とされる男をめざすのも、それはそれでとても大変なことだと思いますし、彼には彼の苦しみがあって、今に至ってしまった。その背景を描けたのも、よかったです。
――背景を知ったとて、許せるかといえばそうではないのですが、彼のその生きづらさは結果的に千秋の性被害に対して口をつぐんでしまうところにも繋がりますし、女性たちの傷つきとも地続き。さまざまな立場の人が描かれるごとに、巻を追うごとに広い視点で社会を描く物語になっていった気がします。
坂井 我ながら、全部ぶちこめたなあと(笑)。18歳差というのも、引きが強いということで決めた部分はありつつ、友人たちに聞くと「男性側が年上だったら、さほど不自然とは思わない」というんですよね。それはなんでなんだろう?という根本的なことを自分自身にも問うきっかけにもなりました。結婚についても、考えさせられましたね。あとがきにも書きましたが、書類を提出すれば誰でも結婚できる世の中で、「偽装結婚」「仮面夫婦」というような言葉が生まれるのは、夫婦のあいだには愛があるべきだとみんなが信じているということ。でもそんなの、どこにも規定されていないんですよね。不貞行為の有無を公の場で問うときも、そこに愛があるかどうかなんて誰も問題にはせず、ただ入れたか入れていないかの証拠だけで争われる。そうなると、結婚っていったい何なんだろう?と考えてしまうんですよ。他人の心を縛ることは誰にもできないはずなのに、結婚すればできるような錯覚に多くの人が陥っているのも不思議なんです。ただそれとは別に、夫婦別姓や同性婚は早く認めるべきだと思いますが。
――忍には子供もいて、結婚だけが幸せになれる手段じゃないということを身に沁みて知っている。でも千秋はまだ若くて、結婚することが愛の証明のひとつだと思っている。そんな二人を通じて「ともに生きる」とはどういうことなのか、考えさせられました。
坂井 中年女性を主人公にしたからこそ描けたことかなあと思います。40歳を過ぎれば、恋愛がうまくいったくらいで人生は変わらないし、幸せにはならないですから。やるべきことがたくさんあるし、健康も気にしなくちゃいけないし(笑)。
――忍にはずっと、デビュー作の面影がついてまわりますよね。描いたアリスに扮して「それでいいの?」と常に問いかけてくる。あれはなぜアリスだったんでしょう。
坂井 あれは、私が高校生のときに描いた4ページくらいのマンガがもとになっているんです。引きこもりの男性がファンタジーの世界に行く、みたいな話だったかな。ノートに鉛筆で描いただけで誰にも見せず処分してしまったものなんですが、20歳前後の忍が描いたデビュー作を40歳過ぎた私がゼロから考えるのは無理だなと思って、再利用することにしました。青臭いところが逆にいいんじゃないか、と。
――試行錯誤の果てに忍がその原点に戻る、というのがとてもよかったです。やりたいことより求められることを優先して、成果をあげていく自分にもちゃんと誇りを持てるようになっていく。そんな忍だからこそ、改めて初心に向き合えたんだなあ、と。
坂井 基本的に忍は私とぜんぜん違う人間で、マンガ家としてのありようもかなり違います。でも、リアリティを出すために私の漫画家としての経験も盛り込んでいます。30代半ばぐらいで仕事がなくなり、マンガ家を辞めようかと思ったとき、これだけは完成させようと決めて描いたのが『ビューティフルピープル・パーフェクトワールド』という作品なんです。10年以上あたためていたネタを、一念発起して雑誌『IKKI』に持ち込んだら単行本化されました。そして『ダ・ヴィンチ』の「今月のプラチナ本」にも選ばれ、次の仕事につながりました。『ヒヤマケンタロウの妊娠』も電子で売れたことで再評価されたので、このあたりの経験も、忍の再起を描く際に参考にしています。そして今、2度目の一念発起で描いた『シジュウカラ』をこうして描き切ったことで、ようやくプロのマンガ家を名乗ってもいいんじゃないかと思えるようになりました。
――この次は、どんな作品を描くご予定ですか。
坂井 描きたいものは全部描いた気がするので、どうしようかなあ(笑)。でも、結婚については改めて考えていきたいですね。最近、未婚を選ぶ女性が増えているのは、結婚生活において、妻への負担が大きいことに、女性たちが気付き始めているからだと思います。社会を変えるには一人一人がちょっとずつ変わらないといけないし、誰かが変えてくれるのを待っているだけじゃだめなんですよ。これからも、読者のみなさんに楽しんでもらえるものを、そしてできるなら、何度も読み返すことで胸に残る何かがある作品を描いていきたいです。