人間をぎっしり詰め込んだ家畜運搬列車の傍で生まれた世界観。不条理に満ちたロシア文学の入門的ショートショート集
更新日:2023/9/21
“ひとりの老婆が好奇心にかられて身を乗り出すうちに、窓から落ちて死んだ。
もうひとりの老婆が窓から顔を出して、階下の、墜落死した老婆を見ていたが、好奇心にかられて身を乗り出すうちに、やはり窓から落ちて死んだ。”
P.15 「落ちていく老婆たち」より
1文目から不穏で不条理で掴みどころのない世界観。それが長々と続くのは読むのにはしんどいかもしれない。しかし、ほとんどが1ページから2ページ前後の超短編だと非常に読みやすく、気軽に不条理な世界観を楽しむことができるだろう。
30の超短編で構成された、ロシア人作家ダニイル・ハルムスの最も有名な作品集「出来事(ケース)」が収められている『ハルムスの世界』(ダニイル・ハルムス:著、増本浩子:訳/白水社)が復刊発売された。この超短篇集の主要なテーマは「不条理」。
実際、著者が生きたソヴィエト(現ロシア)の不条理な日常が本書に色濃く反映されている。昨日まで英雄視されていた人物が、今日にはスパイだと宣言されたり、子ども達は毎週のように教師に、教科書に載っている肖像写真の上に大きくバツ印をつけるように指示されたりしていた。そんな不条理さが満ちている。
根源はとても暗いものだが、超短編でとても読みやすい。奇妙な世界に入ったと思えば物語は終わりを迎えているため、「今、一瞬だけ脳内を通り過ぎていったあの世界は一体何だったのだ?」という読後感が何とも言えずいい。その一部を紹介する。奇妙な世界に片足を突っ込んでみてほしい。
始まりが唐突で奇妙であれば、終わり方もまた唐突で奇妙な世界
“私の身に奇妙なことが起きた。7と8のどちらが先に来るのかが、突然わからなくなったのだ。
私は隣人たちのところに行き、この問題についてどう思うか尋ねた。
彼らも数字の順番を思い出せないとわかったとき、彼らも私もどれほど驚いたことだろう。”
P.16 「ソネット」より
数字がまるっきりわからない、や、3の次がわからない、とかではなく、「7と8、どちらが先かわからない」という少し入り組んだ状況がまたいい。
この話は、最終的にひとりの子どもがベンチから落ちて上下の顎を砕き、骨を折ってしまったことで、「7と8、どちらが先か」という論争から気がそれ、めいめい家に帰るという終結を迎える。始まりが奇妙であれば、終わり方も不条理だ。子どもを心配するどころか、「幸いにも」と表現されているところがハルムスらしい。
皆おしなべて吐き気を催してしまう上演会
“舞台にペトラコフ=ゴルブノフが登場し、何か言おうとするが、しゃっくりをする。彼は吐き始める。退場。
プリティキン登場。
プリティキン「ペトラコフ=ゴルブノフ氏が告げ……」(吐き気を催し、退場)
マカーロフ登場。
マカーロフ「エゴールは……」(マカーロフは吐き気を催し、退場)”
P.52 「失敗に終わった上演」より
新たな人物が出てきては、吐き気を催してしまって一言も満足に言い放つことができずに退場してしまう惨劇が、この後3人続く。そして最終的に、劇場主の男の頼みで娘が登場し、はきはきと「みんな吐き気がするからです!」と堂々閉場を言いのけてしまう流れには、思わずくすっと笑ってしまう。ということは、劇場主も吐き気が止まらないのだな、と推測してしまうまでがセットだ。
人間をぎっしり詰め込んだ家畜運搬列車がすぐ傍を走る日常から生み出されたもの
その他にも、不条理な話は止まらない。斧で薪を割ろうとするタイミングにすぐ近くで「ポン!」と言われて、気が散って、ひとつも薪を割ることができない話。妻にバレないようにバター入れからバターを取り出して妻から逃げ、立ち入り禁止の別の部屋にこもる男にバターを買い取ってもらおうとしたら、安く買い叩かれる話。えんどう豆を食べ過ぎて死んだ男から始まり、不条理な死を遂げていく人々の話、など。
彼の生きた世界では、不条理が日常だった。国内は飢餓に満ち、人間をぎっしり詰め込んだ家畜運搬列車が走る中、「国民の生活の質は向上し、人生はより楽しいものになった」と指導者は言った。そんな支離滅裂で、不条理な世界に生きていたのだ。
今あなたが生きる世界は、果たして道理の通った世界なのだろうか?
文=奥井雄義