高校時代、喫煙で停学中に出会ったドストエフスキー。今も色あせない思春期を彩った読書体験。橘玲さんの【私の愛読書】とは?

文芸・カルチャー

更新日:2023/9/12

さまざまな分野で活躍する著名人にお気に入りの本を紹介してもらうインタビュー連載「私の愛読書」。今回、お話を伺ったのは2002年に金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎)でデビューして以降、『無理ゲー社会』(小学館)や『世界はなぜ地獄になるのか』(小学館)など、数々の話題書を手がけてきた作家・橘玲さんだ。高校時代、大学時代、社会人なりたての頃に出会った今なお色褪せない本の思い出を、語っていただいた。

(取材・文/カネコシュウヘイ)

■あの頃出会った本はいつでも思い出せる、鮮明な記憶に

橘玲(以下、橘):心理学用語の「レミニスセンス・バンプ」はご存じですか?

――いえ、どのようなものでしょう?

:「思い出(reminiscence)」の「突起(bump)」のことで、繰り返し思い出すような印象的な経験を意味する言葉です。誰でも同じだと思いますが、初恋や初体験など、鮮明な記憶はおおむね思春期~20代前半のものでしょう。年をとると刺激も薄れ、バンプ(「凸」の部分)は少なくなってくる。私にとってのレミニセンス・バンプも高校時代や大学時代に出会った本でした。

――今なお、鮮明に覚えていらっしゃると。

:もちろん、覚えています。最初の「バンプ」は高校2年生の秋で、喫煙で1週間の停学になったとき、家にロシア文学全集があったので、『罪と罰』から『カラマーゾフの兄弟』まで、ドストエフスキーの主要な長編をすべて読んだんです。特に『悪霊』の主人公・スタブローギンには影響を受けました。翻訳(日本語)でこんなに面白いなら、原語(ロシア語)で読んだらどれほど感動するだろうと思って、露文科のある早稲田大学文学部に入学しました。

罪と罰
罪と罰』(ドストエフスキー:著、工藤精一郎:訳/新潮社)
カラマーゾフの兄弟
カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー:著、原卓也:訳/新潮社)
悪霊
悪霊』(ドストエフスキー:著、江川卓:訳/新潮社)

――大学時代は、誰の本を読んだのでしょう?

:ロシア語専攻に入ったもののたちまち授業についていけなくなり、同じクラスの友人に「君のような落ちこぼれは、サークルでいろいろ教わらないと卒業できないよ」と、ロシア語研究会に誘われたんです。ところがそこは、マルクスなど社会科学系の議論をするところでした。私が入学した1977年はフランスのポストモダン思想が日本に入ってきた頃で、雑誌『現代思想』や『エピステーメー』がロラン・バルト、ジャック・デリダ、ドゥルーズ=ガタリなどをさかんに取り上げていました。

――ロシア語を勉強しようと思ったら、現代思想の世界に放り込まれたわけですね。

:ええ、まさに2度目の「バンプ」です。ソシュールの言語論から、ロシアの言語学者ローマン・ヤコブソンやロシア・フォルマリズムを経由して、レヴィ・ストロースの構造主義に至るという話なのですが、最初はチンプンカンプンでした。それまで、相手の話が理解できないという経験をしたことがなかったので、これは衝撃的でした。そこで哲学の本を読みはじめたのですが、もっとも大きな影響を受けたのはミシェル・フーコーの『監獄の誕生』です。それまで単純に、権力は自身の外側にあって自由を抑圧しているのだと考えていたのですが、「社会全体が権力の網の目でつくられていて、権力は君自身の内面に埋め込まれている」というフーコーの思想は驚きでした。

監獄の誕生
監獄の誕生』(ミシェル・フーコー:著、田村俶:訳/新潮社)

――それ以外のジャンルでも、影響を受けた本はありますか?

:3度目の「バンプ」は、大学を出て就職した小さな出版社で同僚に教えてもらったハードボイルド小説です。ある日、「君、どんな本読んでるの?」と聞かれたので哲学書を挙げると、「そんなつまらない本じゃなくて、レイモンド・チャンドラーを読むべきだよ」と『長いお別れ』を勧められました。大学時代は「自分は知の最先端にいる」という特権意識があったのですが、働きはじめると、自分が何もできないという現実を突きつけられるじゃないですか。そんな苦い挫折感のなかで、「ハードボイルドの世界の方がずっとリアルだ」と夢中になって読んだのもよい思い出です。

長いお別れ
長いお別れ』(レイモンド・チャンドラー:著、清水俊二:訳/早川書房)

<第32回に続く>

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