妊娠中絶の原因の99%は「望まない妊娠」―男性の射精の責任を28個のメッセージを伝える『射精責任』
公開日:2023/9/15
一番強調したかったのは、妊娠中絶の99%が望まない妊娠が原因であり、その望まない妊娠のすべての原因が男性にあるということです。
上記は2023年7月に翻訳出版された『射精責任』(ガブリエル・ブレア:著、村井理子:訳/太田出版)からの一文。タイトルも強烈だが、本書で繰り広げられる提言もまた強烈だ。
その内容を確認する前に、本書巻末の齋藤圭介氏の解説を参考に、著者が本書を米国で出版した背景を振り返っておく。
まず根底にあるのは、冒頭の引用文でも触れられていた「妊娠中絶」の問題だ。
ここ日本でも2023年4月に厚生労働省が経口中絶薬を承認。それにより中絶について何を・どう・どこまで認めるべきか/認めないべきかは議論を呼んでいるが、米国では日本以上に古くから苛烈な議論が続いてきた。
しかし、そこで権利や選択の当事者として登場するのは「女性」と「胎児」のみ。妊娠に至る性行為の当事者である「男性」は出てこない。これは日本も同じ状況といえる。
本書はそうした現状を前提に、妊娠を中絶することの是非から議論をはじめるのではなく、望まない妊娠の原因である「無責任な射精」から本来は中絶の議論をはじめるべき――と提言しているわけだ。
男の責任や主体性が異様に低く見積もられているおかしさ
本書はそうやって中絶についての議論を土台から問い直し、「望まない妊娠は男性が無責任に射精をした場合のみに起きる」ことを強調。男性の射精の責任を問い直すメッセージを28個の提言の形で伝えていく。
男性は読んでいて「すべてが男の責任ってことはないんじゃ……」と感じたり、思わず反論したくなったりする場面もあるかもしれない。ただ著者は「ターゲットを男性に絞ることが現実的な判断」とも書いており、この書き方はある種の戦略といえる。
そしてじっくり読んでいくと、望まない妊娠における男性の責任を考えることが、今の世の中に必要だと分かってくる。なぜならば現在の社会では、「望まない妊娠を防ぐこと」においても、男性の主体性や責任が異様に軽く見積もられているからだ。
著者が書いていることは極めてシンプルな事実ばかりだ。
男性は自らの意志で射精をコントロール可能である。「責任ある射精をするかどうか」も自分で決められる。男性用の避妊具(つまりコンドーム)は非常に容易に手に入る。
つまり、男性が自分の行動を管理することで、望まない妊娠を簡単に回避できる。
一方で女性用の避妊具は手に入れにくく(入手には診察や処方箋も必要)、コンドームと比べて圧倒的に使いづらく、心身への負担も大きい。排卵時期も正確に予測することは難しい。
つまり、女性自らの行動を管理することで「妊娠をすべきか否か」をコントロールするのは難しい。そして妊娠をしても、その後に中絶をしても出産をしても、肉体的・精神的負担は女性にばかりのしかかる。
にもかかわらず、女性に頼まれないとコンドームをつけない男性は多い。著者はそうした男性を「女性に100%の責任を押し付けている」と痛烈に(というか真っ当に)批判している。
そして「コンドームをしないほうが気持ちいいから」という理由だけでその着用を拒む男性や、無責任な射精をする男性はごく普通にいる(著者は「道端に咲くタンポポくらい」よくある話だと書いている)。コンドームの着用を“お願い”されると不機嫌になる男性や、それを拒否する男性もいる。暴力や怒りで対応する男性もいる。
著者は「コンドームなしのセックスを男性が求めるとき、彼は女性の体を、健康を、社会的地位を、仕事を、経済的地位を、二人の関係を、そして女性の命さえもを危険に晒しているのです」と書く。そこまでのリスクを自覚し、責任を背負う覚悟を決めたうえで、妊娠の可能性のある射精に至っている男性は果たしているだろうか――。
と、本書を読みながら考えていくと、本書の内容は極論でも何でもなく、真っ当なことばかりだと感じられる。
それでも、この読書体験に驚きが伴うのは一体なぜなのか。
それは著者が書くように、この社会が「男性の行動が引き起こす結果から男性を守るようにできてい」るからであり、無責任な射精がもたらす結果について、その「無関心を強化してしまう文化」があるからなのだろう。本書は射精の責任、妊娠中絶の問題の裏にある、家父長制の社会の構造にまで切り込んでおり、こうした記述一つ一つにハッとさせられる1冊にもなっている。
文=古澤誠一郎