獰猛な執着心で息子の人生を支配する母。主人の張形に仏像を彫る妾の心情――江戸のどぶ川沿いで、醜くも懸命に生きる人々の姿を描いた物語『心淋し川』
公開日:2023/9/20
流れぬ川の水は、塵芥の堆積と共に淀み、やがて腐る。下から上へと臭い立つ腐臭は、夏の盛りにとりわけ酷く、人々の顔を歪ませる。ボウフラが湧き、大量の蚊が発生するどぶ川は、誰に愛されることもない。だが、そんな川にも名前はある。『心淋し川(うらさびしがわ)』(集英社文庫)――西條奈加氏による小説の舞台は、江戸の片隅にあるどぶ川のほとりにある心町であった。
本書は、全六章からなる連作短編集である。うだつの上がらない両親に嫌気が差した娘が、恋人と一緒に故郷を抜け出す日を夢見る表題作。裏長屋で「四文飯屋」を営む与吾蔵が、昔の恋人の面影を持つ少女と出会う「はじめましょ」。四人の妾を囲う主人が最初に選んだ妾・“おりき”が、悪戯心から張形に仏像を彫り出す「閨仏」。淀んだ川沿いに暮らす訳ありの住人たちの生き様が綴られた本書は、人生におけるささやかな喜びと、理不尽な哀しみの双方が克明に描かれている。
中でも、母親の歪んだ愛情を見事に描ききった「冬虫夏草」は圧巻である。日常的に長屋に響く、横柄な怒鳴り声。その声の主は、吉(きち)の息子の富士之助だ。上等な白身魚が食べたい、安酒ではなく清酒を飲ませろ、体を拭く湯がぬるい、どぶ川が臭い。彼の際限なき悪態は、長屋に住む者たちがじっと堪えている日々の不満をつまびらかにするものであった。
直視したところで変えられない現実は、薄目で誤魔化してやり過ごすよりほかない。そんな長屋の者たちの心中など意に介さず、富士之助は幼子の如く思いの丈を喚き散らす。よって、富士之助は皆に疎まれていた。
一方、心町の人々は、母親である吉には好意的かつ同情的な眼差しを向ける。吉は、息子にどれほど罵倒されようとも穏やかな表情を崩さず、献身的に息子の介護をし、周囲への気遣いも忘れなかった。そんな吉の姿を見ると周囲も「出ていけ」とは言えず、陰で息子を非難する程度にとどめるしかなかった。
吉と富士之助は、もとは三代続いた薬種問屋「高鶴屋」の嫁と息子で、生活は順風満帆だった。しかし、とある事件に巻き込まれ、息子の富士之助は半身不随になってしまう。さらに追い打ちをかけるように火事に見舞われ、すべてを失った親子は心町の長屋に流れ着いた。以降、5年の歳月が流れても尚、富士之助は心町の生活に馴染もうとはしなかった。
一見すると、荒れ果てる息子に寄り添う母の姿を彷彿とさせる話であろう。だが、それは真実ではない。吉は、息子の世話を焼くことを生きがいとするあまり、息子自身が望む道を手前勝手に閉ざし、彼の人生の舵取りを奪ったのである。
吉が嫁いできた際、夫の身の回りの世話は姑が取り仕切っていた。そのため、吉の寄る辺ない思いは“息子への執着”という形で代替され、時間、労力、愛情のすべてを息子に捧ぐ日々がはじまった。息子が小さいうちは、それでバランスを保てていた。しかし、子どもはやがて育ち、親の手を離れていく。富士之助が「嫁にしたい娘がいる」と言い出した頃から、吉の心は大きく乱れ、やがて薬種問屋「高鶴屋」一家全体のバランスまでもが崩れていった。
“「子供のためと口にする親ほど、存外、子供のことなぞ考えてないのかもしれないな」”
長屋の差配(貸家や貸地の管理をする人)を務める茂十の呟きが、淀んだどぶ川に沈んでいく。不条理な現実を嘆き、母の腕の中で飼い殺される富士之助。そんな息子に罵倒されながらも、世話を続ける日々を「幸せだ」と言い切る吉。狂気を抱いているのは、果たしてどちらだろうか。
最終章「灰の男」では、全話に登場する差配の茂十の歴史がひもとかれる。人の業と赦し、憎しみと虚無。相反する心情を巧みに描いた本章は、物語全体に横たわる一本の川の存在が際立つ。
本書の登場人物たちは、みな少なからず闇を抱えている。だが、闇を見据えながらも、かすかな光に手を伸ばすことを諦めない者たちもいる。闇が深い分、彼らの存在はたしかな光として物語を照らす。“希望”とは、これみよがしに明るいものばかりではなく、闇夜を照らす蛍の光のように小さなものも含まれるのだと、本書を通して気付かされた。
心淋し川のほとりで生きる人々の嘆き、笑い、囁き、慟哭のすべては、現代を生きる私たちに通じている。どのような環境で生きる者にも、心があり、守りたいものがあり、忘れ得ぬ人がいる。他者を嘲り蔑む者は、いつか自分がそちら側に立った時、同じように指をさされる覚悟があるのか――そんな問いをも孕む本書は、静かに、“流れぬ川”として、私の中に鎮座している。
文=碧月はる