アルバイト中の一平が休憩から戻ろうとすると、通用口から入ってきた後輩の葛城が急に苦しみだした/残像①

文芸・カルチャー

公開日:2023/9/28

残像』(伊岡瞬/KADOKAWA)第1回【全4回】

ホームセンターでアルバイトをする堀部一平はある日、後輩の葛城が倒れ、彼を自宅まで送ることに。彼の部屋の隣には3人の女性と小学生の冬馬が住んでおり、一平は葛城を心配した彼女たちと対面する。家族ではない彼女たちの共同生活を奇妙に感じた一平に、冬馬から3人には前科があるという共通点を告げられる。そして物語のもう一つの視点では、政治家の息子・吉井恭一が、自宅に送られてくる送り主不明の不快な写真に苦悩していた。4人はなぜ共同生活をするのか? なぜ恭一に写真が送られてくるのか? サスペンス小説『残像』をお楽しみください。

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残像
『残像』(伊岡瞬/KADOKAWA)

第一章 出会い

1

「今日は、楽でいいなあ」

 あくびのあとの涙を拭いながら、隣に座る幸田陽介が言った。

「まあな」

 おなじ程度に気の抜けた声で、堀部一平は答える。

 たしかに、平日という点を考えても今日の客足はかなり少ないほうだ。朝から雨が降り、五月の中旬にしては肌寒い陽気のせいもあるだろう。

 一平は、中学時代からの友人である陽介と一緒に、このあたりでは最大規模のホームセンター『ルソラル』で、三か月ほど前からアルバイトをしている。つまり、陽介は第一志望の大学に合格し、一平は浪人が確定した時期からだ。

 午後の十五分休憩中だった。普段「詰所」と呼んでいる、小さな事務部屋の近くのベンチに、二人並んで座っている。この詰所は社員通用口のすぐ脇にあって、監視カメラ用モニターなどのちょっとした機材の置き場と、出入りする関係者をチェックする警備員の控室なども兼ねている。

 ちなみに、社員たちの机がある正式な事務所や、ロッカー、休憩室などはすべて二階にある。

 そのベンチのすぐそばの従業員向け自販機で、缶コーヒーを買った。陽介は《微糖つめたい》を選び、一平は《ミルク砂糖入りあったかい》にした。先週、シフトを一回代わってやったので陽介のおごりだ。

 お揃いの制服を着て並んで座る。青いシャツと黄色基調のネクタイ、赤いロゴが入った紺色のエプロンは貸与だ。洗濯もしてくれる。ただ、カッターナイフや各種ペン類が入った、従業員が「腰袋」と呼ぶツールケースは、正社員かベテランのアルバイトしか持てない。もちろん一平たちにはない。

 缶コーヒーのプルタブを引き、ずびずびっと音を立てて飲む。

「あのころは、地獄だったよな」陽介がため息をつく。

「そうだな」

「毎日こうだと、いいよなあ」

「まあな」

 あのころ、といってもそれほど昔ではない。十日ほど前に終わったゴールデンウイークのことだ。

 今年は、カレンダーの並びから十連休だった会社も多いらしい。旅行やレジャー派だけでなく、ここ数年盛り上がっているDIYやガーデニング人気も影響したのだろう。とにかく、駐車場は満杯、接する道路は渋滞、店の中も人で溢れていた。

 二人とも品出しや棚の整理が担当だ。商品がはける日には、トラックが到着する着荷場や「ストックヤード」と呼ぶ収納スペースとの往来も、当然ながら増える。人の背よりも高い檻のようなカーゴに、商品の詰まった折り畳みコンテナを満載して、売り場まで幾度となく往復する。

 陽介とは高校からは別々になったものの、いまだに友達づきあいをしている。高校生のころは、同じ模試を受けた時に成績を見せ合ったりしたが、いつも似たような点数だった。その後、陽介は第一志望のそこそこ名の知れた私立大学へ入り、一平は浪人の身となった。

 しかし陽介は「おれは大学生、おまえは浪人生」という雰囲気を毛ほども出さないし、そもそも、たぶんそんなことは思ってもいないところが、ゆるくつき合える理由かもしれない。

 その陽介が二月の下旬からこのホームセンターでバイトをするのだと聞いて、「おれも紹介してくれ」と便乗した。

 ゴールデンウイーク最中の五月一日から、年号が「令和」に変わった。変わってしばらくは、このネーミングが良いとか悪いとか揉めていたようだが、世間はすでに飽きたようだ。一平たちの生活にもほとんど影響がない。

 今いるこのベンチのすぐ脇はバックヤードの一部になっている。照明はぎりぎりまで落としてあり、コンクリートは打ちっぱなしのむき出しだ。冬は寒そうだし、たぶん夏は暑いだろう。なんの装飾も愛想もなく、倉庫に入りきらない商品が積んである隙間に、身を置かせてもらっているという印象だ。

 窓ガラス越しに外の様子を眺めた。小粒の雨が、窓にアスファルトに看板に、そして停められた車にも、静かに絶え間なく降りかかっている。

 だが、あまり暇なのも喜ばしくはない。

 客足が少なければ商品は売れない。売れなければ、品出しや棚の整理が仕事である一平たちの出番は少ない。ぼんやりしていてバイト代がもらえるほど甘くはない。バイトを統括するチーフマネージャーに「少し早いけど、今日はもう上がって」と言われれば従うしかない。あるいは「明日は自宅待機」と宣言されるかもしれない。

 法律はどうなっているのか知らないが、それが現実だ。

「現実」という言葉に誘発されて、ふと右の手首に目をやる。治ったはずなのに、こんな天候の日は少しうずく。いや、うずく気がするだけかもしれない。

 陽介が「そろそろ行くか」と声に出したときだった。

 通用口のドアを開けて、業務用のカッパを着た人物が入ってきた。大きめのフードをかぶって顔は隠れているが、誰だかすぐにわかった。園芸売り場担当の葛城直之だ。

 葛城は六十代後半らしいが、まじめによく働く。一平よりも三週間ほど遅れて採用された。つまり新顔だが「労を惜しまず」とか「身を粉にして」とかいう古臭い褒め言葉がぴったりの勤務ぶりだ。基本的に週に五日、来ているらしい。

 朝のミーティングで、葛城が園芸担当の新人として紹介されたとき、一平は大丈夫だろうかと少し心配になった。もちろんどの売り場も大変だ。しかし園芸は屋外作業があるし、肉体労働の比率が高い。雨や強風の日にはむしろ仕事は増える。

 一平自身、入店してまもないころのみぞれが降った日に、鉢物の移動を手伝わされたことがある。つくづく「屋内担当でよかった」と思った。しかも自己紹介によれば、葛城はこういう仕事は初めてだという。

 だが日を追うごとに、もし葛城のその言葉が本当なら、家に帰っても勉強しているのではないかと思えてきた。知識といい手際といい、ベテランにしか見えない。

 これまで一平はガーデニングなどにはまったく興味がなかった。花の名前などチューリップぐらいしか知らないし、花が咲かなければ、桜と欅の見分けもつかない。

 葛城とは、ときおり立ち話程度の短い会話を交わすだけだが、まったく興味のなかった花や樹木の世界のことをいろいろと教えてくれた。

 植物は思った以上にデリケートで、特に小さな鉢植えなどは愛情を持って管理しなければ、すぐにダメになってしまう。水をやらなければ枯れるし、やり過ぎれば根が腐る。日に当てなければしおれるし、当て過ぎれば茶色に葉焼けする。

「こんな言いかたをすると年寄り臭いと思うかもしれませんが、人間と同じです」

 言わんとすることは、一平の父親の説教と同じだが、しんみりと語るので嫌味を感じない。もし職場の人間を好き嫌いで区分けするなら「どちらかといえば好印象」かもしれない。

 葛城は、今日も雨の中、植物たちの面倒をみていたのだろう。園芸店では、ちょうど花の盛りに合わせて品ぞろえする。雨にあたるとすぐにだめになる種類もあると聞いた。

 葛城はドア付近で濡れたカッパを脱ぎ、それ用のハンガーにかけ、通路に積まれた段ボール箱の前に立った。バックヤードへ繫がるこの通路には、一時的に置かれた商品が、場所によっては天井に届きそうなほど高く積んである。消防署から指導が入ったとか入りそうだとか聞いたこともある。

 何か探しものらしく、葛城は手元のメモと段ボール箱を見比べている。

 急に葛城の動きが止まった。おやと思う間に、腰を曲げ、その角度がみるみる深くなってゆく。右手を腹のあたりに当て、そのままゆっくり床に膝をついてしまった。苦悶の表情を浮かべ、背を丸め、いまにも額が床につきそうだ。

「おい、あれ」肘で陽介をつついて、立ち上がる。

「ほんとだ。やばいかも」陽介も立つ。

 そちらに向かいかけたとき、背後から声がかかった。

「どうかしたの?」

 よく通る女性の声にふり返ると、社員の添野聡子だった。添野はこの店に三人いるチーフマネージャーの一人で、皆からは略して「チーフ」と呼ばれている。チーフは現場のあれこれを統括しており、一平たちの配置も勤務シフトも、おそらくは雇用条件も、ある程度裁量に任されているらしい。たしか四十歳を一つか二つ超えたぐらいだと記憶している。

「葛城さんが、急に、あんなふうに」

 一平の説明を受けて、添野がうずくまる葛城に気づいた。

「あら、また、、かしら」

 添野はすたすたと葛城に近づき、すぐ近くにしゃがんで顔をのぞき込むようにした。

「葛城さん。大丈夫? 葛城さん!」

 次第に声が大きくなるが、葛城はほとんど反応しない。痛みがひどそうだ。

「どうしようかしら」

 そう言いながら添野は立ち上がり、周囲を見回した。一瞬だけ一平たち二人のところで視線が止まったが、すぐにまたしゃがんだ。添野の目には、何かを頼れる人間として映らなかったようだ。

「救急車呼びますか?」

 添野は葛城本人にたずねた。葛城が弱々しく首を左右に振るのが見えた。

「少し休んだらよくなります?」

 かすかにうなずき、何か答えたようだ。それを聞いて立ち上がった添野が、こんどはしっかりこちらを見て近づいてくる。

「自販機で、なにか温かいものでも買ってあげて」

 陽介に向かって小銭を差し出す。その程度には頼れると思ったらしい。

「はあ」

 とまどいながらも陽介が受け取る。すぐそこに自販機があるのにわざわざ頼むということは、買ってやるだけでなく、そのあとの面倒を見てやってくれという意味だろう。

「少し落ち着いたら、あっちのベッドに寝かせてあげて」

 詰所のほうを顔で示す。中に、急に体調を崩した従業員のために、簡易ベッドが一台置いてある。

「はあ」

 陽介は、なんでおれなんすか、と表情に出したつもりのようだが、添野は気にとめた様子はない。彼女はもう一度しゃがんで、葛城の背中に手をあてた。

「今日はもう結構ですから、少し良くなったらあがってください」

 言い終えると、売り場へつながるドアに向かって歩きだそうとする。

「あの」

 一平はその背中に声をかけた。よけいなことに首を突っ込まないほうがいい、と頭のどこかで思ったが、つい口をついて出た。

 立ち止まって半身だけふり返った彼女に問いかける。

「もし、良くならなかったら、救急車を呼ばなくていいんですか?」

 添野は伸びをするように、一平の肩越しに葛城の様子を見てから、小声で答えた。

「胃痙攣なんだって」

「イケイレン?」

 訊き返す一平に、添野が、そう、とうなずいた。

「差し込み、って言うのかしら。ときどきああやって激痛が走るらしいんだけど、十分くらい安静にしていると治るのよ。これで三度目かな。病院へ行こうって言っても、本人はがんとして『大丈夫です』って言うのよ」

 その先の「だからどうしようもないでしょ」という言葉は飲み込んだらしく、再び背を向け売り場のほうへ去った。

 一平は陽介とうなずきあい、葛城に声をかけて両脇から支え、ひとまず自分たちが座っていたベンチに移動した。

 葛城は苦しげに「すみません」とかすれた声を漏らした。

「ベッドまで行きましょう」

 一平がそう言ったが、葛城は首を小さく左右に振った。

「ここで大丈夫です。少し座っていれば治まりますから」

「でも……」

「ここで、休ませてください」

 一平の声をさえぎって、葛城はおびえる子どものように背を丸めて、ベンチに横になった。

 陽介がベッドから毛布をとってきて、葛城の体にかけた。

 葛城の耳や首のあたりが濡れている。一平はポケットに押し込んであった、今日おろすつもりで忘れていた、支給品の作業用軍手を引っぱり出し、やわらかそうな部品で水滴をぬぐってやった。ハンカチは今朝うっかり取り換えるのを忘れてきたので、まだ新品の軍手のほうがましだろう。

 葛城が小声でつぶやいた。

「迷惑かけます」

「気にしないでください。飲み物、何がいいですか」

 葛城がまたしても首を左右に振るので、自販機から《あったかい》ほうじ茶を買って、キャップをひねった。

「ここに置きますからね」

「申し訳ない」

 時計を見ると、持ち場に戻らなければならない時刻はもう過ぎている。

「どうする?」陽介が一平に意見を求めた。

「チーフに様子を見てくれって言われたよな。ってことはこれは仕事だよな」

「大丈夫です。仕事に戻ってください」

 やりとりを聞いた葛城が割り込んだ。あの添野が「どうしようもないでしょ」という顔をするぐらいだから、頑固なのかもしれない。

 じゃあ行くか、と陽介と目顔でうなずき合った。

「葛城さん。それじゃおれたち、行きますから」

 一平が声をかけると、葛城が小さくうなずいた。かすかに湿った軍手を見る。私物化できないようにするためか、甲の部分にロゴとキャッチフレーズが入っている。

《暮らしのことならなんでもそろう〝ルソラル〞》

 このホームセンターの名称は、スペイン語で《太陽の》という意味の「luz solar」から採ったと聞いた。

<第2回に続く>

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