またあれか――? 恭一に度々送られてくる不快な写真が印刷されたはがき。恐る恐る写真を確認すると…/残像④
公開日:2023/10/1
『残像』(伊岡瞬/KADOKAWA)第4回【全4回】
ホームセンターでアルバイトをする堀部一平はある日、後輩の葛城が倒れ、彼を自宅まで送ることに。彼の部屋の隣には3人の女性と小学生の冬馬が住んでおり、一平は葛城を心配した彼女たちと対面する。家族ではない彼女たちの共同生活を奇妙に感じた一平に、冬馬から3人には前科があるという共通点を告げられる。そして物語のもう一つの視点では、政治家の息子・吉井恭一が、自宅に送られてくる送り主不明の不快な写真に苦悩していた。4人はなぜ共同生活をするのか? なぜ恭一に写真が送られてくるのか? サスペンス小説『残像』をお楽しみください。
4
吉井恭一は、今朝も寝覚めが悪かった。
「ふああ」
天井に向かって、大げさなあくびをする。また、一日が始まってしまった。くそ面白くもない、くそほどの価値もない一日だ。
「何時?」隣に寝ている女が訊いた。
女の柔らかい尻が、恭一の腰のあたりに触れる。
「会社」平坦な口調で答えた。「――そろそろ行く時間なんだ」
「うそお。もうそんな時間?」
それには答えず、上に掛かっているものをがばっと勢いよくはねのけた。そうでもしないと起きるスイッチが入らない。
下着しか身につけていない女の体があらわになった。
「やだ」
女は、薄手の上掛けをたぐりよせて、体にまきつけた。
恭一はそれにはかまわず、ボクサータイプのパンツ一枚を身につけただけで、ベッドから下りた。
六本木という立地ではあるが、タワーマンションの二十二階のこの部屋が、現実的に誰かに覗かれる心配はないだろう。だから、真夏以外はブラインドも開けっぱなしだ。すでに朝日が差し込んで、散らかり放題の部屋を無残に照らしている。
裸足のままトイレに入って用を足す。手と顔をざっと洗って冷蔵庫の扉を開ける。昨夜はあれだけ飲んだのに、缶ビールや瓶入りの酒がまだ何本か残っている。ほかには、パックされたチーズや生ハム、オリーブの実の瓶詰めなどがある。
買ったか作ったかを問わず、総菜の類は一切ない。部屋で食事らしい食事はしない主義だ。外食と決めている。
喉が渇いていたので、ジャスミンティーのペットボトルに直接口をつけ、音を立てて飲む。冷たい液体が芳香を放ちながら喉を下っていく。唇からこぼれた分が顎から胸へと伝う。それを肩に載せていたタオルで拭う。
「ヒロはどうする?」
再度洗面所に向かいながら優しく声をかける。寝癖を直すために、さっとシャワーで濡らすのだ。
「もうちょっと寝てていい? 今日は三時限目からにする。ちょっと飲み過ぎちゃったみたい」
相変わらずいい加減な性格だ。しかし、飲み過ぎたのは事実だ。テーブルの上には、中身の残ったグラス、ビールの空き缶やワインの空き瓶、三分の一ほど入ったウイスキーの瓶、炭酸水のペットボトルなどが、ほとんど隙間がないほど並んでいる。
ドライヤーの風を髪に当てながら、ベッドに向かって怒鳴る。
「コーヒーが飲みたいな」
「えー、やだ。めんどくさい」
中西広菜は私大の三年生で、今年の四月に知り合ったばかりだ。恭一の勤め先が開いたパーティーに、コンパニオンとして派遣されて来たのがきっかけだ。
いかにもアルバイト然としていてプロ意識が見えず、パーティーの最中から友人らしい女と談笑しているので「きみたち学生のバイトかな」と声をかけた。すると悪びれるどころか、笑いながら「そうでーす」と答えた。よく馘にならないなと思ったが、素人くさいほうがおじさんどもに受けがいいのかもしれない。
「ここが終わったら飯でもいかない? フレンチでも寿司でもいいよ」と冗談交じりに訊いたら、二人一緒という条件であっさりついてきた。
その晩はホテルのレストランで食事だけして指も触れずに別れ、数日後に広菜だけを呼んだ。前回よりグレードの高い店でディナーを食べさせたら、あっけないほど簡単に部屋に泊まった。
しかし、けらけらと明るすぎるので手を出せなかった。まだその時機ではない。ただ、酒を飲み、一緒のベッドで寝るだけだ。「ベッドを共にする」という言葉がそのまま真実の関係だ。ここから先は、少しじっくりといく。
「コーヒー、淹れてくれないかな」
「やだあ、眠いから」
上掛けにくるまったまま、広菜がなげやりに答える。
ごく小さく舌打ちする。自分で淹れるのは面倒だし、時間もない。今さら遅刻したぐらいでがたがた言われないが、どうも職場内に密告者がいるらしい。先月、たった三日ほどずる休みしたら、父親のところに報告が行った。
「風邪だろうが腹痛だろうが、絶対に休まない訓練をしておけ。病弱な印象を与えたら、政治家は終わりだ」
父親にそう説教された。何歳になるまで精神論をぶつつもりか。
「ねえねえ、恭一さん」
ベッドに寝転んだままの広菜が、上掛けを抱き枕のようにして、声をかけてきた。
「なに?」
「こんど外国連れてって」
「またそれ? チケット取ってあげるから友達と行ってきなよ」
「やだ。エスコート役がいないと」
「どうせ財布がわりだろ」
「やだぁ。バレてるし」
へらへらと笑う声を聞きながら、二度と「女」を売りにできない体にしてやろうかと、心の中で暗い炎を燃やす。広菜は、恭一が肉体的な機能に問題ないとわかると、単に変わった性癖なのだと納得したようだ。一種の潔癖症だと思ったのかもしれない。
恭一の〝本当〞を知らない広菜は、こうしていつも舐めた口をきく。しかし、もしもその素顔の一片でも垣間見たら、顔色を変えて逃げていくだろう。それを想像するのは、ほかのことでは得られない快感だ。
途中のコンビニで缶コーヒーとサンドイッチを買うことにして、サイドボードの上に投げ出した郵便物を手にとった。昨夜、エントランスのボックスから抜き出しはしたのだが、すでに酔っていて、きちんと目を通していなかった。
相変わらず、マンションを売りませんか買いませんかというDMやビラばかりだ。宅配寿司のメニューもある。めんどくさくなってまとめてゴミ箱に放ろうとしたとき、はがきが一枚落ちた。
心臓のあたりが、ずきん、とうずいた。
またあれか――?
しばらく来なかったので油断し、不意打ちをくらった感じだ。
プリンターで印字した宛名が見える。細ゴシック系のフォントや大きさに見覚えがある。プリント用はがき用紙として市販されている、独特の紙質だ。少し迷ったが、結局端をつまんで持ち上げた。二度深呼吸して裏返した。
「うわっ」
ある程度の予測はしていたのに、小さな悲鳴が喉から飛び出た。汚物でもついていたかのようにそれを放り投げる。薄い郵便物はひらりと舞って、テーブルの上のウイスキーボトルにこつんと当たり、フローリングの床に落ちた。
思わず漏らした声を広菜に聞かれなかったか気になった。ベッドを見たが、こちらに背を向けて、また寝入ってしまったようだ。
床に落ちたそれは、今までのものと同じく、はがき用紙にプリントした写真に、切手と宛名シールを貼ったものだった。見ないほうがいいとわかっているが、恐いもの見たさに勝てず、腰を折って写真面に焦点を合わせた。
布団に横たわった少年の写真だった。顔は写っていないが、体つきから小学校の高学年あたりだろうとわかる。白装束を纏っている。いや、本物ではないかもしれないが、とにかく白くてそれっぽいものを着ている。子供の頃に見た、母方の祖母の葬式を思い出す。真っ白な装束を着させられ、手に短刀のようなものを持っていた。この少年の手にも、似たような短刀が見える。つまり、死んでいるということだ。
もちろん、本当の死体ではない。〝ふり〞をしているだけだ。
「くそう。ふざけやがって」
驚愕が醒めてくると、入れ替わりに怒りが沸きあがった。根拠はないが、もう飽きたのだろうと思っていた。しつこいやつだ。このおれが、いやおれの父親が誰だかわかって、こんな嫌がらせをしてくるのか。よほどの馬鹿か、度胸があるのだろう。
どこのどいつがやっているのか。調べようと思えば簡単だぞ。警察にも検察にも顔は利く。捜査員を総動員するぞ。あれこれ余罪もつけて、一生刑務所から出られないようにしてやるからな。
さんざん腹の中で毒づいてみたが、結局つまみあげてサイドボードの引き出しを開け、投資信託のパンフレットに挟んだ。
もう、出かける時刻だ。クローゼットからクリーニングの袋に入ったままのワイシャツを取り出す。破いて、裸の上に直接袖を通す。鏡を見ながら、顔におびえがないか、たしかめる。
大丈夫だ。二日酔いの気配もない。今日も一日、無難にすごして、夜は少し遊びに出ようか。連れていくのは誰にしよう。ベッドに寝転んだままの広菜に視線を向ける。もうひとりの北川芽美子とどちらにするか。やはり、広菜でいいだろう。芽美子のことは、もう少しフラストレーションが溜まったときの楽しみのためにとっておく。
それに、広菜にはもう少し美味しい思いをさせなければならない。
たっぷり餌をもらって自分は幸せ者だと信じていた豚が、ある朝おのれの運命を知って絶望する瞬間を想像すると、失神しそうなほどの快感だ。