スタッフ同士の雑談でも「お客様」呼び。お店独自の言葉のルールが細かすぎる/お客さん物語 飲食店の舞台裏と料理人の本音①

文芸・カルチャー

公開日:2023/9/19

お客さん物語 飲食店の舞台裏と料理人の本音』(稲田俊輔/新潮社) 第1回【全5回】

飲食店の裏側の生々しい話や、料理人ならでは熱い思い、お客さんとお店の本音など、1話完結で味わえる『お客さん物語』を描くのは、日本で南インド料理ブームを流行らせた男――稲田俊輔。料理人であり、飲食店プロデューサーであり、そして「食」に溺愛した一介のお客さんでもある彼が、ラーメン屋で、あるいはカレー屋で、はたまたイタリアンで目撃したり、体験した「食」に関するエピソードの数々を語ってくれる。誰かに話したくなる「食」に関する小ネタが満載。あなたに似たお客さんがいるかも……是非、探してみてください。

※本作品は『お客さん物語 飲食店の舞台裏と料理人の本音』(稲田俊輔/新潮社)から一部抜粋・編集しました

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お客さん物語 飲食店の舞台裏と料理人の本音
『お客さん物語 飲食店の舞台裏と料理人の本音』(稲田俊輔/新潮社)

客、お客さん、お客様

 かれこれ25年以上も前、僕がいろんな飲食店を次々と掛け持ちしアルバイトに精を出していた頃、お店の裏ではお客さんのことを「客」と呼ぶのは割と当たり前でした。

「ウチの客は味のわからん奴ばかりだ」

 みたいなボヤキや悪口はもちろんですが、

「奥の卓のあの客、先週も来てくれてたよな」

「昨日はいい客ばっかりだったな」

 みたいにそこに間違いなく愛情がこもっている場合でも、主語は「お客さん」ではなく「客」と呼び捨て。もちろんお客さんに聞こえるようなところでは「お客さん」になりますが、それは外面を気にした、あくまで「接客用語」という感じでした。

 しかし、ある時僕がアルバイトで新しく入った、とある創作居酒屋は特別でした。そこではお客さんを「客」と呼ぶことが、そこにお客さんがいようといまいと厳格に禁止されていたのです。それどころか、なんと「お客さん」という呼び方すら厳禁でした。ではどう呼べばいいのか――。

 

 答えは、「お客様」です。それ以外は一切許されませんでした。そこがキッチン内だろうとバックヤードだろうと、業務連絡であろうとスタッフ同士の雑談であろうと、常に「お客様」としか呼んではならない。それは鉄の掟でした。

 入店した日、先輩たちが、

「昨日のあの酔っ払いのお客様、タチ悪かったよなあ」

「ああいうお客様はマジ勘弁してほしいわ」

 というようなグチすらも、「お客様」を貫いて会話しているのを聞きながら僕は、なんかすごいところに来てしまったぞ、とたじろいだのを覚えています。

 僕もそうでしたが、この店に入る新人、特に他所の店から移ってきたばかりの人間は「お客様」なんて言葉に慣れておらず、ついうっかり「お客さん」という言葉を使っては、

「おいお前、今なんつった?」

 と、店長や先輩にこっぴどく叱られたものでした。

 他にもこの店には独特のルールがありました。例えば「テーブル◯番お会計です」は完全にアウト。何がダメなのかわかりますか? この場合「テーブル◯番『様』」と言わなければいけません。なぜそう言わねばならないか、店長は明快に説明してくれました。

「『テーブル◯番』というのは、我々がそのお客様の名前を知らないから便宜的に使う、仮の名前なんだよ。仮の名前だからってそれを呼び捨てにしていいわけないだろ」

 確かにこれは納得せざるを得ません。

 他にもありました。

「テーブル◯番様からシーフードサラダと手羽先のオーダー入りました」

 今度は「様」も付けたし大丈夫だろう、と思いきやこれもこっぴどく叱られます。何がいけないのかわかりますか? これはけっこう難問です。店長に解説してもらいましょう。

「いいか? オーダーってのは、待ってりゃ勝手に入ってくるもんじゃないんだよ。お客様にオーダーしていただけて初めて俺たちはその料理を作ってお出しすることができるんだ」

 なのでこの場合の正解は「テーブル◯番様からオーダーいただきました、、、、、、、」です。これもまた他所の店から移ってきたスタッフは度々ミスって怒られていました。

 最後、これは超難問です。

「ありがとうございました」

 なんとこれもアウトです。三たび店長にご登場いただきましょう。

「『ありがとうございました』ってのは完了形(?)なんだよ。そこで一旦終わってしまうわけだ。俺たちがやるべきことは何かわかるか? それはそのお客様に次もまた来ていただくことだ。ならばお見送りの挨拶も必ず次に繋がる前提の言い回しじゃなきゃいけないんだよ」

 ここまで解説してもらってもまだ難しいかもしれませんが、正解は、

「ありがとうございます」

 です。

 その応用として、このルールにはもうひとつ続きがあります。一度でも見かけた記憶のあるお客様には必ず、

「いつもありがとうございます」

 と言わなければいけないとされていました。常連様扱いされるのは誰にとっても気分のいいものであり、そうすると次も絶対に来ていただける、という強固な信念がそこにはありました。

 余談ですが、飲食店を経営する立場となった今の僕は、この「いつもありがとうございます」という言い回しに関してはかなり慎重です。少なくとも一度見かけたくらいでこう声をかけることはありません。現代においてそれは「無理に距離を詰めすぎ」と感じるからです。

 数回見かけたことのあるお客さんに、この当時の癖で「いつもありがとうございます」と言って送り出した後、偶然そのお客さんのSNSの投稿を見てしまったことがあります。そこには「せっかく一人で気軽に立ち寄れる店だったのに、急に常連みたいな扱いを受けてこれから行きづらくなった」と書かれていました。本当に申し訳なく思いましたし、今でもトラウマです。

 

 その店は新興の会社が運営する数軒の店のうちのひとつでした。その会社は社長はじめ幹部が、アパレル畑出身の人間や元高級外車のセールス、元デザイナー、といった飲食叩き上げではない異業種からのメンバーで構成されていたようです。だからこそ旧態依然の飲食業の常識にはとらわれず、より顧客目線の徹底した接客の大事さをよくわかっていたのではないかと今となっては思います。

 その店の、飲食業経験者ほど戸惑うようなバックヤードルールは、接客に対する意識を単にマニュアル的な技術としてだけではなく、「お客様とは我々にとっていかなる存在なのか」ということを骨身に叩き込ませるための、極めて効果的な手段だったのではないでしょうか。

 ちなみに僕がこの店で働き始めたのには、ひとつ明確な理由がありました。その店は評判の繁盛店で、僕も何度かお客さんとして訪れたことがありました。そこで僕が衝撃を受けたのは「料理がおいしくない」ということでした。おいしくない、はやや言い過ぎかもしれませんが、盛り付けこそ何となく洒落た感じにしようと工夫している感が無くもありませんでしたが、料理の味や素材は極めて凡庸、その割には安くもありませんでした。

 僕は、

「これほどまでに料理に魅力の無い店がなぜこんなにも流行ってるのか?」

 というのがさっぱり理解できず、それを理解するため、という極めて不純かつ失礼にも程がある理由でそこに入店したのです。しかしその疑問は、この一連のバックヤードルールや接客ルール、そしてそれを厳格に守ることによって自然と生まれるスタッフたちの職業意識の高さを目の当たりにして、あっさり氷解したような気がしました。

 同時に、おいしくない、と思っていた料理に対しても大きく見方が変わりました。それは確かに僕のような料理オタクから見ると極めてつまらないものでした。しかしそれは、そこに来るお客様がいかにストレス無くその場を楽しく過ごせるか、というテーマに沿って徹底的に考え抜かれたものだったのです。その会社はその後大躍進を遂げ、全国にその店舗を拡大していきました。ちなみに料理そのもののレベルもグングン上がっていったと思います。僕はこれまでのキャリアにおいて、料理そのもの以外の飲食店にまつわる全てをここから学んだと言っても過言ではありません。たかだか半年くらいの短い経験ではありましたが。

 現代の飲食業界では「お客様」という言い方はごくごく当たり前のものになっていると思います。これは別にこの会社が広めたというわけではなく、日本全国で接客に求められるレベルがひたすら上がり続ける中で、あちこちで自然発生的に生まれたものではないかと考えています。まさに「お客様は神様です」の時代です。

 

 僕がこの店を上がったのは、友人と一緒に自分たちの店を立ち上げるためでした。新しい店では、僕が半年経験したその店のバックヤードルールや接客マニュアルがほぼそのまま適用されました。「お客様」「テーブル◯番様」「オーダーいただきました」「ありがとうございます」――それらのルールは全て、自分たちの店で四半世紀を経た今も健在です。

 ただ同時に僕個人としては、お店とお客さんの関係性は、もっとフラットに対等で、かつ何にも縛られないものであるべきではないかという思いが強まっています。

 世間全体もそういう流れであるようなことは肌で感じています。だからこそ僕は個人として「いつもありがとうございます」を封印しました。そして「お客様」という言い回しも少し過剰なような気がしています。

 自分たちの店の店内ルールにおいて「お客様」という言葉を廃止することは今更無いと思いますし、そこには今でも一定の意味があるのは確かだと思います。それをスタッフには徹底してもらいつつも、僕は本書の中では「お客様」ではなく「お客さん」という言い回しを用います。今回は、そのことに対するスタッフ達への、そして読者の皆さんに対する言い訳です。

<第2回に続く>

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