死に対する心の準備。眠る前の「3秒の感謝」で、毎日幸福の収支決算をする/今日も、私は生きている。①
公開日:2023/9/26
『今日も、私は生きている。 世界を巡って気づいた生きること、死ぬことの意味』(曽野綾子/ポプラ社)第1回【全6回】
修道院付属の学校に通いキリスト教の道に進みながら、数多くの国や地域を巡ったベストセラー作家・曽根綾子さん。『今日も、私は生きている。 世界を巡って気づいた生きること、死ぬことの意味』では92歳になる著者が、富める人、貧しい人、キリスト教徒、イスラム教徒など様々な人と出会い感じたことをもとに「勝ち負けのない人生」を説いています。丁寧に綴られた言葉に思わず背筋が伸びるような気持ちになる、珠玉のエッセイ集をお楽しみください。
三秒の感謝
ごく若いうちから……時には子供のうちから死を常に考えるかどうかは、ひとえにその人の性格によるものらしい。私は子供の時から今まで、毎日死を考えない日はない。
自分の老いを戒めるつもりの『戒老録』も三十七歳の時に書き始めている。当時女性の平均寿命は七十四歳だったので、三十七歳はその折り返し地点だった。
死を引き当てに、私は生を感じてきた。心中(残念ながら男とのではない。私が幼かった時、母との)寸前まで行ったことがあるので、自殺とは何かも、当事者として知っている。私は幼い頃から徹底して、年より老成したい、と望んでいた。つまり私は死に近づくことで、それにようやく耐える方法を発見しようとしている弱虫だったのだろう。
私の尊敬している神父に、
「僕は結婚式の司会をするのは嫌いなんですよ。もう翌日にケンカして、別れたいって、言って来るかもしれない。安定が悪いんですよ。その点、僕は葬式は好きだな。静かで、答えが出てて、安心できて、あったかい」
と言う人がいる。私もほぼ同じような気持ちである。だから私は旅に出ても、すぐ墓地を歩きたがる。墓碑銘を一つずつ読み、会ったこともないその人の生涯に思いを馳せる。静かな会話の時間である。
死に易くなる方法はないか、と言う人がいる。つまり怖がらずに死ねる方法はないか、ということである。
名案があるわけでもなし、あったとしてもまだ死んだ経験のない私には、それが有効である、という保証も見せられない。しかし多少はいいかな、と思う方法が一つある。
もし、その人が、自分はやや幸福な生涯を送ってきたという自覚があるなら、毎夜、寝る前に、「今日死んでも、自分は人よりいい思いをしてきた」ということを自分に確認させることである。つまり幸福の収支決算を明日まで持ち越さずに、今日出すことなのだ。
五十歳になった時から、私は毎晩一言だけ「今日までありがとうございました」と言って眠ることにした。これはたった三秒の感謝だが、これでその夜中に死んでも、一応のけじめだけはつけておけたことになる。
しかしもし一方で、人生を暗く考えがちの人がいるとしたら(私もその一人だったが)、人生はほとんど生きるに値しない惨憺たる場所だという現実を、日々噛みしめ続けることである。そうすれば死に易くもなる。
全く、現世はろくな所ではない。愛し合わない夫婦が共に暮らすことは地獄の生活である。しかし愛し合っている夫婦の死別もまた、無残そのものである。どちらになってもろくなことはない。
戦争も平和も、豊かさも貧困も、もし強い感受性を持っていたら、それなりに辛い状況である。貧困は苦しいが金持ちならいいだろうと思うのは、想像力の貧困の表れである。
この世が生きて甲斐のない所だと心底から絶望することもまた、すばらしい死の準備である。私は基本的にその地点に立ち続けてきた。
しかしそう思っていると、私は自分の生悟りを嘲笑われるように、すばらしい人にも会った。感動的な事件の傍らにも立ち、絢爛たる地球も眺めた。それで私は夜毎に三秒の感謝も捧げているのである。
<第2回に続く>