「1960年代のアメリカみたい」先端的な技術と物質的な繁栄がもたらす日本の輝き/今日も、私は生きている。⑥
公開日:2023/10/1
『今日も、私は生きている。 世界を巡って気づいた生きること、死ぬことの意味』(曽野綾子/ポプラ社)第6回【全6回】
修道院付属の学校に通いキリスト教の道に進みながら、数多くの国や地域を巡ったベストセラー作家・曽根綾子さん。『今日も、私は生きている。 世界を巡って気づいた生きること、死ぬことの意味』では92歳になる著者が、富める人、貧しい人、キリスト教徒、イスラム教徒など様々な人と出会い感じたことをもとに「勝ち負けのない人生」を説いています。丁寧に綴られた言葉に思わず背筋が伸びるような気持ちになる、珠玉のエッセイ集をお楽しみください。
キラキラ輝く日本
もうずいぶん前の話として聞いて頂きたい。日本人が兎小屋に住んでいると言われた時代があったが、そういう日本が真に繁栄しているのか、それともそれは幻影なのか、素人の私には断定することができないでいた。しかしその頃の或る秋の一日、一人の韓国の知識人が東京に現れ、数年前にできた新しいホテルの前で私と待ち合わせた時、私の「東京はいかがですか?」という、ほんとうは深い意味はなかった筈の質問風挨拶に対して、彼女は、「一九六〇年代のアメリカみたいにキラキラしてますね」と答えたのだった。
いわゆる六〇年安保の年のアメリカを、私も偶然知っている。まだ自由に誰もがアメリカに行けるという時代ではなかった。ドルのレートは一ドル三百六十円であり、従って私たち日本人の旅行者は誰もが貧しかった。
その年のアメリカは何と輝いていたことか。二十代の終わりだった私はすべてに感動した。まず当時の日本には一キロも存在しないハイウエイというものを走って眼が眩んだ。こういう道が日本にもできるのは、恐らく私たちが死んでからだろう、と、夫と話し合った(実際はその四年後の一九六四年に東京の鈴ケ森から新橋まで、ハイウエイとは名ばかりのものが完成したのだが)。
アメリカの一般の住宅や飛行場やモーテルなどの明るい作りとその内部設備のぜいたくさ、自動車の豪華さとその性能のよさ、食物の豊富さ、オートメーションのはしりを思わせる自動販売機やその他のすべての先端的な機械類の豊富さにも、私は羨望を禁じえなかった。
私の性格の中に、今にいたるまで、伝統を追うよりも、新しいものを楽しむという軽薄なところがある。というより、伝統の理解者と後継者は、私の周辺にいつもたくさんいるので、そちらは任せておけばいいという気になるのである。しかしいずれにせよ、六〇年代のアメリカは輝いており、その輝きのほとんどすべてのものを日本は持っていなかったのである。
この韓国の友人の「優しいお世辞」の要素をも含む言葉をそのまま受け取っていいとは思わないが、知識の上の日本人の歴史と、現在生きている同時代人の記憶のすべてを総合しても、現在、我々が手にしているこれだけの物質的繁栄が、過去の日本のいつの時代にもなかったこともまた明らかである。物質的繁栄がそのまま、その国家か社会の最盛期であるかどうかは問題のあるところかもしれないが、一応の目安にしないというのもまた不自然であろう。
一九八八年の夏、私は四十五日間の長い旅行をした。ほんとうはシルク・ロードを行く筈だったが、昔は大地が繁がっている限り、その途中に待ち構えている様々の困難さえ覚悟すれば、個人はどこへでも行けた地球が、今は政治的に分断されていて、中国も当時のソ連も、あちこちに基地があって、私たちの自動車旅行も決して自由にコースを選ぶことができない。そのため、その計画を再度延期してその次に行こうとしていた地中海の西半分を見ようという計画を実現したのであった。東半分は、ばらばらに、飛び飛びに、ほんのポイントだけという場所もけっこうあるが、アルバニアを除くほとんどの国を、一応駆け足ではなく歩いている。
参加したのは一九八四年にサハラを縦断した時以来のメンバーの一部で、パリ在住のカメラマン・熊瀬川紀氏と早稲田大学助教授・吉村作治氏、それと三浦朱門に私である。ヨーロッパの歴史を習う時、ドイツ史とかフランス史とかいう習い方をするのは、実に不自然なことなので、地中海文化というものは、一つに考えなければならないということがいつのまにか私にも理解できるようになっていた。熊瀬川氏はアフリカとヨーロッパの取材にかけては長い経験があるし、吉村氏はエジプト学の草分けであり、しかも離婚された夫人はエジプト人だったということもあって、私は教えられることが極めて多かったのである。
私たちはパリでレンタカーを借り、ポルトガル、スペインを経て、ジブラルタルの近くからアフリカのモロッコに渡り、各地を見た後再びスペインに戻った。その後ヴァレンシア、バルセローナ経由海岸線をフランス領マルセイユまで行き、そこからもう一度船で地中海を渡ってチュニジアのチュニスまで車を運んだ。
チュニジアに行ったのは、ほとんど残っていないカルタゴの遺跡とよく残っているローマの遺跡を見ることと、サハラ砂漠の端まで南下して、前回のサハラ縦断の時、一緒に行けなかった三浦朱門に、ほんとうの砂漠の一端を見せることであった。
あとは北上して、シシリー島に渡った。ここはカルタゴとローマが何度か争った歴史的な土地である。シシリーからは、イタリアの長靴の爪先に上陸して、それからふくら脛の海岸線、つまりアドリア海沿岸の道を通ってヴェネツィアに出た。後はミラノ、トリノ、モンブラン・トンネルを通ってパリへ帰り着いたのである。それが四十五日、約一万二千八百キロの旅行であった。