「ぼくは、生まれる前に殺されていたかもしれない」。優生保護法により命を奪われていた可能性のある著者が伝える、聴こえない母の切実な声
更新日:2023/10/20
“もしかしたらぼくは、国によって生まれる前に“殺されていた”かもしれない。”
「優生保護法」――過去、この国に存在した差別の権化とも言える悪法によって、障害を持つ多くの方がさまざまな権利と健康を奪われた。五十嵐大氏によるノンフィクション作品『聴こえない母に訊きにいく』(柏書房)は、ろう者である著者の母の歴史を辿る中で、かつて存在した優生思想の恐ろしさに触れている。
著者の母・冴子は、宮城県塩竈市で生まれた。先天性のろう者で、中等部から入学した「宮城県立聾学校」で出会った浩二と交際を経て結婚。その後、二人の子として生を授かったのが著者である。
本書において冴子が語る内容は、自身の姉との絆も含めて「幸せな記憶」が多い。小学校時代の友人との思い出、恩師との温かな交流、夫との出会い――悲しみや恨みごとをほとんど口にしなかった母の姿に、著者の胸中は“ぐちゃぐちゃになった”という。母が語る幸せな記憶の裏側に潜む「差別」の片鱗は、現在進行形で社会にあふれている。そのことをよく知っている著者は、母だけではなく、伯母や母の恩師など幅広い人たちから話を訊き、その過程で、ろう者が辿ってきた苦難や母が抱えていた葛藤、優生思想の歴史にたどり着く。
“この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする――。”
本書に記された、「優生保護法」の第一条である。法律が施行された当時、遺伝性疾患や精神障害、身体障害など、56にも及ぶ病者や障害者たちが槍玉にあげられ、強制不妊手術が「法の名の下で」行われていた。冴子自身も妊娠・出産にまつわる話で、「あれは差別だったと思う」と語る体験をしている。
“「ふたりが結婚して、もしも子どもができたら、その子はわたしがもらって代わりに育てるから」”
著者の父・浩二の姉が冴子に向けた言葉だ。父の姉からすれば、障害を持つ弟夫婦を心配しての言葉だったかもしれない。しかし、「障害がある」というだけで「我が子を育てる権利すらないのか」と思わせるこの台詞は、冴子自身の意志を完全に無視している。
障害がある。ただそれだけの理由で、周囲は「心配」を盾に当事者からさまざまな権利を取り上げる。子を産み育む権利、人を愛する権利、生まれる権利までも。これらは、本来ならすべての人が生まれながらにして持っているはずの「人権」と呼ばれるものだ。優生思想が蔓延した時代を過ぎた今もなお、人々の偏見は根強い。
「優生保護法被害弁護団」の一人である弁護士の藤木和子さんは、以下のように語る。
“ありとあらゆる障害者、そしてその家族が不当に差別されない社会を作っていくことが本当のゴールですよね。”
本書では、「優生保護法」による被害者側の視点のほか、“加害者の子孫”が抱える苦悩についても描かれている。「娘の耳が治りますように」と祈るあまり、宗教にのめり込んだ母。聴こえない娘に言葉を教えることに熱心だった父。著者にとって祖父母にあたる二人が抱えた苦悩もまた、社会が「障害者」を「不良な子孫」として貶め続けた結果生まれたもののように感じる。それぞれが持つ苦しみの根源を生み出した国と社会は、被害者の声を聴き、同じ過ちを繰り返さぬよう問題に真摯に向き合う必要があると私は思う。
冴子の両親が彼女を通常学級の小学校に入学させた理由。中等部から聾学校に入学し、そこではじめて手話による会話の楽しさを知った冴子の喜び。過去の教育機関が、ろう者を少しでも聴者に近づけるようにする教育法「口話法」を推し進めた歴史。私たちが知るべきことは山のようにある。健常者の多くは、障害者に対して無意識に健常者の側に合わせることを求めがちだ。そして、そこから生まれる障害者側の葛藤には、当事者以外あまり目を向けない。
どちらか一方を強いるのではなく、互いに歩み寄る。その意識があるかないかで、手をつなげる人の範囲は大きく変わる。万人と分かり合うのは、どうしたって無理だろう。しかし、「障害があること」が相互の理解にとって必ずしも壁となるわけではない。著者が母に「訊きにいった」ように、隣にいる人の声を私は訊きたい。まずは、それが私たちにできる最初の一歩ではないだろうか。
文=碧月はる