風呂を借りに訪れた一郎の家。ひっそりと置かれた額縁には、今は亡き一郎の妹・桃の笑顔の写真があった/潮風テーブル③

文芸・カルチャー

公開日:2023/10/1

潮風テーブル』(喜多嶋隆/KADOKAWA)第3回【全5回】

湘南の港町にある素朴な魚介レストラン「ツボ屋」、別名「ビンボー食堂」。店主である女性・海果が、中学生の少女・愛や町の人々の助けを借りて細々と経営している。町が観光客で賑わい稼ぎ時となる夏、大型台風の到来やライバル店のオープンなどが重なり未だかつてないピンチを迎えてしまう。「お前には用がない」と戦力外通告された過去をもつ海果と、家族がバラバラになってしまった愛――それぞれが心の傷を抱えながらも、いまの自分の居場所を守るために奔走する。心温まるヒューマンドラマと美味しそうな料理の数々が魅力的な『潮風テーブル』をお楽しみください!

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潮風テーブル
『潮風テーブル』(喜多嶋隆/KADOKAWA)

3 桃の花が咲いていた

 どこかの野球場の片隅。

 ユニフォーム姿の一郎と、Tシャツ姿の愛……。

 愛の無邪気な笑顔……。一郎がその肩を抱いて写っている……。

 それを30秒ほど見ていたわたしは、はっと気づいた。

 一郎と並んでいるのは、愛ではなく、一郎の妹の桃ちゃんだ。

 交通事故で天国に行った桃ちゃん……。

 けれど、30秒たってやっと気づくほど、写真の桃ちゃんと愛は似ていた。

 丸顔。鼻は高くない。けれど、目は大きく黒目がち。

 いわゆる美少女ではないけど、ごく簡単に言えば、愛嬌のある顔立ち。

 そして、無邪気としかいえない笑顔。

 可憐な桃の花が、そこに咲いていた……。

「それは、二軍の練習グラウンドだよ」一郎がつぶやいた。

 高校を卒業し、プロ球団入りした一郎。けれど、すぐ試合に出られるわけではないらしい。

 しばらくは、二軍の練習グラウンドで、トレーニング……。

 そのグラウンドに、妹の桃ちゃんは、しょっちゅう応援に来ていたと聞いた事がある。

「そんなときのスナップ写真さ」と一郎。

「桃は球団のスタッフたちにも可愛がられてたから、誰かが撮ってくれたんだな……」と言った。

「親父とお袋がその写真を気に入ってるから、額に入れてるんだけど……」

 わたしは、うなずいた。

 息子と、いまはもういない娘が一緒に写っている写真を飾っておきたい。

 その両親の気持ちは、痛いほどわかる……。

「でも、一郎はあまり?」

 わたしは訊いた。その額が、ほかの額に隠れるように、ひっそりと置かれていたからだ。

 一郎は、冷蔵庫からビールを出しグラスに注いだ。ひと口……。

 30秒ほど無言でいて、ぽつりと口を開いた。

「その写真を見るのが、やっぱり辛くてさ……」とつぶやいた。

 

 一郎と妹の桃は、6歳違い。

 桃の花が咲く頃に生まれたので、〈桃〉と名づけられた子だ。

 一郎と桃ちゃんは、ものすごく仲のいい兄妹だったという。

 一郎は、葉山の中学時代から天才的な野球選手だった。

 そんな一郎は、桃ちゃんにとってのヒーローであり、最高のお兄ちゃんだったらしい。

 一郎も、そんな桃ちゃんを心の底から愛していたようだ。

 葉山の中学を卒業した一郎は、野球では名門の高校にピッチャーとして進学。

 そこでも、エースとして活躍する。

 一郎が神奈川代表として甲子園の大会に出場するとき、そのスタンドには必ず桃ちゃんの姿があったらしい。

 その頃のスナップ写真を、スマートフォンの画面で見た事もある。

 やがて、ドラフト会議をへて、一郎は横浜に本拠地ホームを置くプロ球団に入った。

 当然のように、桃ちゃんの夢は、一郎がプロ野球のピッチャーとして投げる事……。

 そのチャンスは、一郎が入団した秋にやってきた。

 10月、球団ではピッチャーのやりくりがきつくなり、新人の一郎に登板のチャンスがきたという。

 けれど……一郎が登板する前日にそれは起きた。

 自転車で国道134号の交差点を渡ろうとしていた桃ちゃんは、居眠り運転のトラックにはねられた。

 ほとんど即死だったという。

 そのとき、彼女は13歳。いまの愛と同じ年だ。

 彼女が背負っていたバッグには、一郎が登板する試合のチケットが大事そうに入っていたという……。

 

 一郎の時間は、そこで止まっていた。

 ショックから立ち直れず、野球選手としてのモチベーションを失ってしまった……。

 また葉山に戻り、漁業で生きるつもりでいたようだ。

 けれど、たまたま出会った愛の存在が、そんな燃えかすのような一郎に、火をつけたらしい。

 運動オンチの愛に、ボールの投げ方などを教えているうちに、心の中でくすぶっていた想いが再燃……。

 自分が、野球のグラウンドに置き去りにしてきたさまざまなもの……。

 さまざまな人の期待や願い……。

 それを置き去りにしたままで、いいのか。

 このままで、一生後悔しないのか……。

 そんな想いが、一郎の背中を押したらしい。

 そして、野球選手への再起に向けてトレーニングをはじめたのが、つい1カ月前だ。

 わたしがそんな事を思い出していると、愛がお風呂から上がってきた。

「お風呂、ありがとう」と愛。無邪気に言った。

 少し茶色がかって柔らかなその髪は、まだ濡れている。

「びしょびしょじゃないか」と一郎。タオルで、愛の髪を拭いてやりはじめた。

 愛も気持ちよさそうにしている。リンスのほのかな香りが、あたりに漂う……。

 そして、優しくおだやかな一郎の表情……。

 彼は、愛の中に、いまはもういない桃ちゃんの面影を見ているのだろうか……。

 そうかもしれないと、わたしには感じられた。

 窓から入る夕方の陽が、一郎の横顔や愛の髪に射している。チイチイというカモメの鳴き声が、港の方から聞こえている……。

 

「あ、ハンバーグ……」

 と愛。口を半開きにして言った。ひさびさの肉に、目が輝いている……。

 1時間後。一郎が、ハンバーグを作ってくれていた。

 台風のせいで、この2、3日、魚の水揚げはない。それでハンバーグらしい。

 一郎は、大きなボウルに入れたハンバーグの材料をこねている。

 Tシャツから出ている一郎の腕が逞しい。

 野球選手らしく太い筋肉が、力強く動いている。

 愛は、とにかくハンバーグが食べられる事に夢中だ。

 けれど、わたしはハンバーグの材料をこねている一郎の腕を見ていた。

 前から気づいていたのだけど、男の人が、手や腕を使って働いている姿を見るのがわたしは好きだ。それは、元漁師で、そのあと料理人になったお爺ちゃんを見て育ったせいだろう。

 やがて、ハンバーグを焼くいい匂いが漂いはじめた。

 

「はいよ」

 と一郎。まず愛の前に、焼いたハンバーグを置いた。

 それを見たわたしは、思わず笑ってしまった。

 丸いハンバーグ。そこに、ケチャップで愛の顔が描いてあった。

 といっても、大きな丸い目が二つ。そして、ニッコリとした口。それだけだ。

 でも、

「これ、わたしだ……」と愛。無邪気な笑顔で言い、食べはじめた。

 一郎が、それを優しく見つめている。

 愛の存在は、どこまで一郎の心の傷を癒す事ができるのだろうか……。

 そうあって欲しいと思いながら、わたしも一郎が作ってくれたハンバーグを食べはじめた。

 

「でも……」と愛。

「あのオッサン、なんであんなところを歩いてたんだろう」と言った。ハンバーグを、食べ終わったところだった。

「そのオッサンって、たまたま風呂場を覗いちゃった酔っ払いか?」と一郎。愛はうなずいた。

「そのオッサン、大工みたいじゃなかったか?」と一郎。

「あ、そういえば」わたしは、つぶやいた。陽灼けして、はちまき。大工さんっぽかった。すると、

「やっぱりそうか。いま、近くで店を造ってるからなあ……」と一郎。

「店?」とわたし。

「知らなかったのか? お前たちの〈ツボ屋〉から、40メートルぐらいしか離れてないよ。なんか、食い物屋らしいぜ」と一郎。

「食い物屋?」とわたし。

「ああ、なんかレストランっぽいな。すごい突貫工事で造ってるぜ」

 一郎が言った。その場所は、確かにうちに近い。

 葉山の海岸に沿っているバス通り。そこから、森戸海岸の砂浜に向かっていく細いわき道がある。

 うちの〈ツボ屋〉は、その細いわき道に面してるのだけれど……。

「バス通りから、そのわき道に入る角だよ、レストランらしいものを造ってるのは」

 と一郎。わたしは、うなずいた。1カ月ほど前、そこで何かの基礎工事をしていた……。

「あれが、レストラン?」訊くと一郎は、うなずいた。

「そんな感じだったな。バス通りに面してる角で、立地条件はいいし」

「確かに……」と愛。

「けど、すごいスピードで造ってたな。かなりの人数の大工やペンキ職人を動員して、日が暮れても工事してたよ」と一郎。わたしは、うなずいた。

 湘南でレストランを開こうとしたら、まずは夏が勝負。8月に、どれだけ客をつかむかで、勝負が決まると言ってもいい。

 

「もしかしたら、ブルーシートをめくったあのオッサン、そこの工事人かも……」

 わたしは、つぶやいた。

 そのレストランの現場で日暮れまで働いてた大工さんたちが、そのあと少し歩いた砂浜で大々的に酒盛りをやる。

 オッサンの一人がひどく酔っ払って、うちの前を通りかかり、何気なくブルーシートをめくった……。そんな可能性は高い。

「いずれにしても、あそこのレストラン、そろそろできるんじゃないか?」

 と一郎。もう8月が近い。いま開店しなければ、トップ・シーズンに間に合わない……。

 

「あの、一つ頼んでいい?」と愛。一郎に言った。

「何だい」

「あの……小さなハンバーグを一つ作ってくれない? サバティーニの晩ご飯に」と愛。

「あの猫か……」と一郎。微笑した。そして、小型のハンバーグを作りはじめた。

 手を動かしながら、

「お前、優しいんだな」と愛に言った。そして、ハンバーグを焼きはじめた。

 その帰り道。小さなハンバーグを胸にかかえ、

「いままで、がめついとかケチって言われた事はあるけど、優しいなんて言われたの初めてだ……」

 愛がポツリとつぶやき、わたしは苦笑。その細い肩を抱いてゆっくりと店に戻る……。

 

 その2日後。

「えぇ!」と愛。

「ありゃ……」とわたし。

 二人とも、口を半開き。バス通りとわき道の角は、すごい事になっていた。

<第4回に続く>

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