魚介レストラン「ツボ屋」の近くに飲食店が開業し大ピンチに。その店は全国チェーンのパスタ専門店で…/潮風テーブル④
公開日:2023/10/2
『潮風テーブル』(喜多嶋隆/KADOKAWA)第4回【全5回】
湘南の港町にある素朴な魚介レストラン「ツボ屋」、別名「ビンボー食堂」。店主である女性・海果が、中学生の少女・愛や町の人々の助けを借りて細々と経営している。町が観光客で賑わい稼ぎ時となる夏、大型台風の到来やライバル店のオープンなどが重なり未だかつてないピンチを迎えてしまう。「お前には用がない」と戦力外通告された過去をもつ海果と、家族がバラバラになってしまった愛――それぞれが心の傷を抱えながらも、いまの自分の居場所を守るために奔走する。心温まるヒューマンドラマと美味しそうな料理の数々が魅力的な『潮風テーブル』をお楽しみください!
4 偵察
〈パスタ天国〉……。そのピンクの看板が、陽射しを浴びている。
噂の店が開店した。
葉山・森戸海岸沿いのバス通りと、うちに向かう小道の角だ。
その一画は、お祭り騒ぎのようになっていた。主に若い人たちが、三〇人ぐらい行列を作っている。
その近くで、揃いのウエアを着たモデルっぽいお姉さんたち三人が、チラシを配っている。
ピンクのTシャツに白いショートパンツ。スタイルのいいお姉さんたちが、笑顔で道ゆく人たちにチラシを配っていた。
お姉さんの一人は、ぼさっと眺めているわたしと愛にも、「はい」と言ってチラシを渡してくれた。
〈パスタ天国・葉山店 OPEN!〉の文字が派手に躍っている。
〈このチラシ持参のお客様は全品30パーセント割引!〉
とあり、メニューの写真が載っている。
店名通り、パスタの専門店らしい。パスタを盛ったお皿の写真が、ずらりと並んでいる。
並んでいるお客たちは、みなそのチラシを持っている。その中には、地元の知り合いの姿もあった。そんな光景を眺めていたわたしは、ふと目をとめた。
店の人らしい中年男が、並んでいるお客を整理している。
その人とふと視線が合った。3秒後、わたしは、「あ……」とつぶやいた。
あれは、2カ月ぐらい前だった。
平日の午後3時過ぎ。中年男が一人で店に入ってきた。
四十代だろうか。仕立てのいいスーツを着て高級そうなネクタイをしめている。
中年男一人のお客は珍しい。なんだろう……。わたしは、ちょっと身がまえた。
けれど、その男はカウンター席にかける。
「パスタ、ある?」と言った。どうやら、お客らしい。わたしは、愛が描いたメニューを彼の前に置いた。
それをじっと見ていた彼は、〈パスタ・サバティーニ〉を注文した。
サバとトマトを使ったパスタ。いま、うちの看板メニューになっている。
彼は、それをいやに黙々と食べ、勘定を払い、帰っていった。
学校から帰ってきて手伝っていた愛も、ちょっと不思議そうな表情でその人を見ていた。サラリーマンが来るにしては、時間が半端だし……。
わたしの中に、〈?〉が消え残った。
いま、並んでいるお客を整理しているオジサンは、間違いなく彼だった。
彼も、わたしと愛に気づいたようだ……。そのとき、
「店長!」と店から出てきた若い従業員が声をかけ、彼は店に戻っていった。
店長か……。
「あれは、偵察というか、マーケティング・リサーチだったんだ……」
と愛が言った。チラシを手にツボ屋に戻ったところだった。
「マーケティング・リサーチ?」
わたしは、訊き返した。愛は、相変わらずそういう言葉にくわしい。
「そう、新しく開店するにあたって、近隣のライバル店をチェックしておくことだよ」
「そっか……」わたしは、つぶやいた。確かに愛の言う通りかもしれない。
うちとあの店では、何もかも違う。
それでも、近所にある店はいちおう調べておくのだろう……。
「全国でチェーン展開してるね……」
愛が、スマートフォンの画面を見ながら言った。〈パスタ天国〉について調べているところだった。
「かなり大手の外食チェーンだ……」と愛がつぶやいた。
〈パスタ天国〉を経営しているのは、〈(株)田島フーズ〉という会社だという。
「この会社、〈パスタ天国〉は、全国で六〇店舗。ファミレスは五〇店舗、回転寿司は七〇店舗を展開してるよ」
と愛。
「そういえば、クラスの誰かが、横浜にある〈パス天〉に行ったって言ってたな……」とつぶやいた。
〈パスタ天国〉は、略して〈パス天〉と呼ばれているらしい。それだけポピュラーな店なんだろう。
「平均価格帯を低く設定してあるね」
と愛。〈パスタ天国〉のチラシを見て言った。愛は13歳だけどうちの経理部長。やたら難しい言葉を使う。
「それって?」
「わかりやすく言えば、メニュー全体が安いって事だよ」
「そっか……」
わたしは、つぶやいた。確かに、チラシにあるパスタは、みな千円以下だ。へたなファミレスより安いかも……。
「うちのお客をとられるかなあ……」わたしは、つぶやいた。
「お店の場所が場所だから、かなりとられるかもね」と愛。
〈パスタ天国〉は、バス通りの角。
普通の観光客たちは、まずそこを歩いてうちの前にやって来る。
うちの店にくる前に、〈パス天〉に入ってしまう可能性は高いかもしれない。
それでなくても、うちツボ屋の経営は大変だ。
毎月15万円の借金を、信用金庫に返さなくてはならないから……。
魚市場で拾ってくる魚やイカ。それと、一郎が釣らせてくれるマヒマヒやイナダ。
それを食材に使う事で、なんとか潰れずにやっているのが実情だ。
あの〈パス天〉の開店で、これからどうなるのだろう……。
「偵察に?」愛が、訊き返した。わたしは、うなずき、
「あっちの店が、どんなか、偵察してみる必要があるかも」
〈パスタ天国〉の店長も、うちを偵察に来た。それなら、こっちも偵察に行く必要があるだろう。
「でも、わたしたちの顔、バレてるよ」と愛。それはそうだ。さっきも、店長はわたしたちの事を見ていた。
「なんか、作戦を考えなきゃ……」
「え……これ?」と愛。その帽子を手にして言った。
翌日。お昼過ぎだ。
偵察には、愛を行かせる事にした。ボケナスのわたしが行っても意味がないので、目ざとい愛を行かせる事にした。親友のトモちゃんと二人で……。
「でも、わたしの顔もバレてるよ」と愛。
「だから、変装していくの」とわたし。古い野球帽をとり出した。
「変装?」
「そう、男の子にね」
あの、風呂場を覗かれたときの事。
たまたま覗いてしまったオッサンは、愛を見て〈坊や〉と言った。
酔ってた事もあり、愛を男の子だと思った……。それは使える……わたしは思った。
愛には、ジーンズを穿かせた。そして、わたしが中学生の頃に着ていたGジャンを出してきて着せた。
最後は、野球帽。お爺ちゃんがかぶっていた横浜のチームの野球帽だ。
愛の髪は、肩まである。その髪をアップにして大きめの野球帽の中に入れた。それを見て、
「いいかも」とわたしは言った。
その姿だと、男の子に見えない事もない。やや丸顔の男の子……。
5分後。店に入ってきたトモちゃんは、プッと吹き出した。
「どうしたの、愛?」
「イメージ・チェンジよ」とわたし。トモちゃんに事情を説明した。
「なるほど、変装か……」とトモちゃん。
「知ってる人なら、すぐに愛だとわかるけど、店の人は気がつかないかもね……」と言った。
「じゃ、頑張ってきて」わたしは、レジから千円札を三枚ほど出し、愛に渡した。
「ほら、たくさん食べるんだよ」
わたしは、猫のサバティーニに言った。
今朝は、久しぶりに魚市場で魚を拾えた。網から上げるときに傷がついた魚や、脚の千切れたヤリイカなどを拾えた。
わたしはいま、その中のアジをサバティーニに食べさせていた。
鮮度がいいので、サバティーニはアジの刺身をはぐはぐと食べている。その姿を眺めて、
「いくらでも食べていいからね、宣伝部長」とわたしは言った。
いつも、店の出窓から外を見ているサバティーニ。
その可愛さに惹かれて入ってくるお客も多いのだ。
強力なライバル店ができてしまったいま、招き猫のサバティーニは、頼みの綱かもしれない。
そんな事にはおかまいなく、サバティーニははぐはぐと魚を食べているけれど……。
「お帰り」とわたし。愛とトモちゃんが、店に戻ってきた。
「けっこう時間かかったね」二人が出て行ってから、2時間以上たっている。
「それが、いろいろあって……」とトモちゃん。
見れば、愛の表情が硬い。目も腫れぼったい。泣いたあとのように……。
「何があったの!?」とわたし。
<第5回に続く>