『ブルーピリオド』で描かれる“好き”の気持ちは、本当に純粋なプラスの感情なのか? 明確な解のない大学生活へ突入する“アート系スポコン漫画”が描く葛藤
公開日:2024/2/10
“アート系スポコン漫画”として、青年・矢口八虎が美術との劇的な出会いからその道を歩む様を描いた『ブルーピリオド』(山口つばさ/講談社)。
アートの域に囚われることなく、様々な葛藤と泥臭く対峙する人々の心に突き刺さる名言が話題を呼んだ。「マンガ大賞2020」の受賞や2021年のアニメ化、2022年の舞台化など、多彩な形で多くのファンに愛される作品として今なお支持を集めている。
実質倍率100倍の難関を見事突破し、現役で美大合格を果たした八虎。彼の大学入学以降は“藝大編”として、八虎をはじめ周囲の人々がそれぞれに美術と向き合う様を描く。
現在本編で描かれているのは、明確なゴールのあった受験編とはまたひと味違う、より深度の深い人間の葛藤や鬱屈だ。時に読者であるこちら側も息苦しくなるほどの生々しさで描写されるそれは、けっしてアートの近くにいる人々だけのものではない。
アートとは、芸術とはなにか。自分はなんのために、美術の道を選び歩むのか。そしてその道の先で、自分はどのように芸術と関わり続けていくのか。
この問いはけっして、美術・アートというコンテンツにとどまるものではない。対象を変えてなお、今の時代を生きる私たちに共通する問いかけだ。
緩くも確実に下降線を描く社会情勢の中で、安心できる未来の確約はない。だがそんな時代を生きる誰もが、それを考えることの意義を問う。本作は今まさに、そのようなマンガへと性質を変えているようにも思う。
人生観を変えられた出会いから美術の道を志し、葛藤と努力の末に選ばれし狭き門を突破した主人公・矢口八虎。しかし無事に美大入学を果たしたものの、その先の将来像やなりたい姿が明確に定まってはおらず、次第に“なぜ自分はここにいるのか、なぜ美術を学んでいるのか”という自問を抱えるようになる。
その中でも少しずつ同じ絵画科油絵専攻の同級生や他学科、あるいは学外の人々との出会いや交流を広げ、未知の世界から徐々に見識を広げていく八虎。大学も二年次に進み、まだまだ明確な理想像や目標を見つけるには至らないものの、アートを通して着実に、彼は人としての成長を続けていくのである。
“誰か全部俺の人生選んでくれれば 「お前が選んだんだろ」とかも言われなくて済むのにな”『ブルーピリオド』12巻より引用
大学生活の中で、自分の将来という明確な解のない壁にぶち当たる八虎。
テストの答案のような唯一の答えがない問題を考え続ける彼の周囲には、まるでその葛藤や懊悩に呼応するように、ひとつの正しい答えだけでは測りきれない事象が多数浮き彫りになってくる。
“俺 子どものまま大きくなったみたいだ”『ブルーピリオド』10巻より引用
“絵が好きで 絵を描く人も好きで 僕も絵を描いてるけど そういう人を知れば知るほど 自分はそっちには行けんなあって思わされんねん”『ブルーピリオド』11巻より引用
たとえば、“なにかを好き”になるという気持ち。絵を描くことが好き、美術が好き、動物が好き、人が好き。だがその“好き”は、本当に純粋な好意やプラスの感情なのか。自分が本当に好きなのは、好きなことをする行為によって得られる承認欲求や達成欲求ではないか。もしそうであれば、その“好きなこと”に固執する必要はどこにあるのだろう。はたまた好きなことに注ぐ情熱で、自分にとって都合の悪いものから、必死に目を逸らし続けているだけではないか。
人によって千差万別で、それでいて一枚岩ではない“なにかを好きになる”気持ち。それに対する気づきや自問で自身の足元がぐらつき始めるのは、なにも八虎だけではない。
“誰かにとって忌み嫌う場所でも 誰かにとっては唯一無二の居場所で… それってどっちが正しいって話じゃなくて どこを見てるかで感じ方が変わるんですよね”『ブルーピリオド』13巻より引用
“自分が恵まれてるなんて考えたこともなかったっす でもそれこそが恵まれてるってことなんですよね”『ブルーピリオド』14巻より引用
あるいは、人々の“無意識”によって巻き起こる、ままならない人間模様。
社会の人々の大多数は当然、己の人生を生きることで精一杯である。他人が生きてきた人生や生活をただしく自分事として捉えることは、どれだけ綺麗事を並べても不可能に近い。それでも、“自分とは違う人がいる”と知るだけで、見え方の変わる世界もある。
自分にとっての当たり前は他人にとって当たり前ではないし、同じく誰かにとっての当たり前も自分にとっての当たり前ではない。その上で自分はなにを考え、人々に対しなにを感じるのか。八虎は自身の感性で、彼なりの答えを見つけようともがき続けている。
そして主人公である八虎と同じく、物語を読者として俯瞰する私たちもまた、彼をはじめとする多くの登場人物の一挙一動に、様々なことを思い、考えを巡らせることとなるのだ。日々の生活や暮らしで忙しい中、それでも足を止めて、正しい答えのない問題を思考する機会や体力を与える。
これからの未来を誰でもなく、自分自身の手で切り開いていかなければならない人々のためのマンガ。それこそが、今の『ブルーピリオド』という作品の魅力の本質なのではないだろうか。