昭和の香り漂う「猫目荘」に引っ越してきた伊緒は、そのボロい建物を見て呆然とする/猫目荘のまかないごはん①
公開日:2023/10/7
『猫目荘のまかないごはん』(伽古屋圭市/KADOKAWA)第1回【全5回】
昭和の香り漂う古びた木造の下宿屋「猫目荘」。引越し先を探していた降矢伊緒は友人に猫目荘を紹介してもらい、1日2食のまかない付きにひかれて、内見もせず入居を決めてしまう。入居当日、まかないを食べに食堂に集まった住人たちは個性的な人ばかり。建物のボロさと、これからの彼らとの共同生活を思いため息が出ていた。しかし、ふたりの男性大家が作るクリームシチューや豚キムチなどにひと手間加えたまかない料理は伊緒を心から幸せにしてくれて…。『猫目荘のまかないごはん』は伊緒と住人たちが織りなす、美味しくて心が温まるお話です。
第一話 春来たり、おんぼろ下宿とまかないと
目の前には満開の桜。
その向こうに鎮座するどす黒い建物を見つめ、わたしはただただ呆然としていた。たぶん、間抜けに口を開けて。
地域としては〝阿佐谷〞になるのだろうが、どの鉄道路線の駅からも絶妙に遠い場所にある、木造二階建て。壁は醬油で煮染めたように真っ黒で、今年は昭和何年だっけと考えてしまうような佇まい。朽ちかけているわけではないものの、その古くささゆえに震度2で崩れてしまうんじゃないかと思える。杉並区の指定文化財だと言われても納得できそう。
狭いながらも前庭には二本の桜の木が植えられていて、満開だった。麗らかな午後の陽射しのもと、風が通りすぎる。
青い空、白い雲、風に舞う桜の花びら、黒く古風な建物。絵になる光景だ。
自分が住むと思わなければ……。
まかない付きの、いわゆる「下宿屋」だとは聞いていた。しかしここまで古色蒼然とした建物だとは想像だにしなかった。
短い敷石を挟んだ玄関の引き戸の上には『猫目荘』と書かれた木製の額が掲げられている。これで「ねこのめそう」と読むらしい。変わった名前だ。
「なぁ」
唐突に声が聞こえてびくりとする。
反射的に半歩あとずさって下を見やると、猫がいた。どこから現れたのか、玄関前に立ち、もういちど「なぁ」と鳴く。ニャー、じゃない。確実に日本語で「なぁ」と言っている。
でっぷりと太った猫だ。全身に茶と白い毛がまだらにあり、ふてくされたような顔も逆に愛嬌がある。首輪をしているので、野良猫でも地域猫でもなさそう。この下宿屋で飼っている猫だろうか。
門柱のところにいるわたしの足もとまで、とことこ、いや、のたのたと近づいてきた。思わずしゃがんで「きみ、かあいいねー」と頭を撫でる。
やはり人に慣れているのか、されるがままで、きゅっと目をつぶって気持ちよさそうな表情をする。さらに愛嬌マシマシだ。
そのとき、ガラガラっと音を立てて玄関の戸が開いた。
姿を見せた男性と視線が合う。
三十代の後半くらいだろうか。ベージュの綿パンに生成りの白シャツ。爽やかさのある演技派俳優といった顔立ちで、正直、ぶっちゃけ、悪くない。
かたわらに置いていた大きなボストンバッグに視線を向け、再びわたしを見やり、そっと口を開く。
「えっと、もしかすると、降矢、伊緒さん?」
「あ、はい、そうです!」
彼が大家だと気づき、慌てて立ち上がる。さまざまな事情から内見には来なかったのだが、大家とは電話で話していた。
茶白のでっぷり猫はわたしの動きに驚くでなく、自分の役目は終わったとばかりにのたのたと戸の向こうに入っていった。
「ああ、お待ちしておりました。猫目荘の大家をしております小金井です。よろしくお願いします」
「降矢です。こちらこそお世話になります」
互いに頭を下げる。
引っ越し業者に預けた荷物が届くのは午後遅くになるので、ひとまず大家から話を聞くことになった。
こぢんまりとした玄関を抜けて建物内に踏み入る。
大正時代は言いすぎにしても築何年だか想像もつかない陰気な建物ながら、嫌な臭いがするわけでもなく、清潔感がある。玄関からつづく廊下は薄暗いながらもきれいに磨かれていて、老舗旅館と思えば意外に悪くない。
まっすぐ延びる廊下を小金井に従って進む。奥の右手から光が差していて、彼はそこに入っていった。
ひろびろとした台所兼食堂だ。大きなテーブルも置かれていて、いわゆるダイニングキッチンなのだが、やっぱり雰囲気的に〝台所と食堂〞と言いたくなる古めかしさがあった。ただ、大きな窓から差し込む午後の光が部屋いっぱいに充満していて、陰鬱さは感じられない。
テーブルに小金井と向かい合って座る。
「このたびは猫目荘にご入居いただき、ありがとうございます。あらためまして、大家の小金井です。とはいえ、ここは法的には賃貸物件ではないので、入居や大家というのはおかしいんですけどね」
そう言って小金井は爽やかに微笑んだ。
「そうなんですか?」
そうなんです、と彼はうなずく。「まかないを提供する下宿屋は、法的には『旅館』のたぐいになるんですよ。宿泊施設、ですね。でも皆さんがそれを意識する必要はないですし、普通のアパートと同じに思ってもらって大丈夫です。こちらもそう思っていただけるよう努めてますし」
まかない――。
それこそが猫目荘の特徴であり、わたしが入居を決めた最も大きな理由でもある。
ここでは朝と夕の一日二回、大家がつくってくれる料理が提供される。
わたしは二十九年間――もうすぐ三十年に達する――料理することを頑なに拒絶してきた。カップラーメンのように「お湯をそそぐだけ」がぎりぎりで、袋麺は料理のカテゴリーに入ってしまうのでアウトだ。自宅にある調味料はコーヒー用のグラニュー糖と、弁当の味つけが物足りなかったとき用の醬油だけ。実家とも縁を切っていたので、手料理を食べる機会はほぼなかった。
外食や、スーパーやコンビニのお弁当に頼る生活を五年間つづけ、栄養面を含め、食生活の貧しさに不満と不安を覚えることが年齢とともに増えてきていた。朝夕のまかない付きは、このうえなく惹かれる条件だったのだ。
家賃――正確には家賃ではなく宿泊費になるのかもしれないが――は立地の悪さと建物の古さもあって相場より安めで、まかない代も毎日手間なく手料理が食べられると思えば、充分に納得できるものだった。自炊をしないと食費は高くなりがちなので、なおさらだ。
それ以外の条件は目をつぶるつもりでいたし、ここを斡旋してくれた友人からは「年季の入った」物件だとは聞いていた。しかしここまでどす黒く、昭和の香り漂う建物だとは想像していなかった。たしか「逆におしゃれ」とも言っていたはずで、あとで問い詰める必要がある。
「ああどうも、遅くなりました!」
突如台所に朗らかな声が響いた。
背が高く、大柄な男性がにこにこ顔でテーブルに近づいてくる。服の上からでも筋肉質だとわかる体軀で、もみあげからあごの先、口の周りも豊かなひげに覆われていた。年齢は小金井より上、おそらく四十代の半ばだと思える。ダンディなおじさん、という呼称がぴったりの人物だ。勝手なイメージながら、なんとなく山男っぽい雰囲気がある。
彼は小金井のかたわらに立ち、丁寧に腰を折った。
「降矢伊緒さんですね。猫目荘の大家をしております、深山です。よろしくお願いします」
玄関前と同じように慌てて立ち上がり、こちらも挨拶を返す。頭を下げながら、大家がふたり? しかも男がふたり? とクエスチョンマークが浮かんでいた。聞いてないんだけど。
山男ふうの深山は――くしくも山繫がりで名前を覚えやすい――小金井の隣に腰かけた。小金井が説明してくれる。
「猫目荘はわたしと深山のふたりでやってるんですよ。とはいえ、じつはここをやる前からパートナーとしていっしょに暮らしてたんですけどね」
はにかむように言って、ふたりは親しげに視線を交わす。
ああ、なるほど、そういう、ことですか。
いや、べつに、小金井はパートナーがいる感じの落ち着きだったし、年齢的にちょっと上かなと思ってたし、狙っていたとかそういうあれはいっさいなかったんだけど、なんだろう、この、なんかもったいないなーと思ってしまう感覚は。
ダメだダメだ。こういう考えもきっと差別的なものなのだ。いまの時代はオープンに、多様な生き方を尊重するべきだし、わたしもそういう人間でありたいと思っている。
「あ、そうなんですね――」笑顔をつくる。「おふたりで。とても、すてきですね」
大丈夫、顔は引き攣ってないはず。言葉は若干白々しさがあったが、たぶん気づかれてはいない。たぶん。
その後、入居にあたっての説明をふたりから聞いた。
おおむね若いほうの小金井が説明し、ときおり深山が補足する感じだ。ふたりとも人当たりがよく、言葉遣いは丁寧で、物腰もやわらかく、知性を感じられ、とても安心できる人物だった。
事前に聞いていたことの復習を含め、猫目荘のシステムや、細々としたルールが説明されたあと、アレルギーや食べられないものを聞かれた。
契約前に電話で話したとき、ヴィーガンや、小麦粉全般がダメなど、制限の多い食事には対応できないこと。それ以外の一般的な好き嫌いの範疇であれば、なるべく対応するとは聞いていた。
常識的な食材であればだいたい大丈夫なので「とくにないです」と答えたあと、興味本位で聞いてみる。
「たとえば、もしわたしが揚げ出し豆腐が食べられないとなると、まかないに揚げ出し豆腐は出なくなるんですか」
「いえ、そんなことはないですよ」笑みを絶やさず小金井が答える。「そうなるとほかの住人に対して、降矢さんも申し訳なく感じるでしょうし。おかずに揚げ出し豆腐があれば、降矢さんだけ代わりの料理を用意することになりますね。一品だけなのでどうしても簡単なものにはなりがちですが」
「たとえば、たとえばですけど、カレーが食べられないって人も世の中にはいますよね」
「まあ、会ったことはありませんが、存在はしているでしょうね。降矢さんは苦手だったりするんですか」
「いえ、大好物です。以前一週間連続でカレーを食べて、さすがにちょっと自分で自分に引きました。毛穴からカレー臭が漂うんじゃないかと。あ、加齢臭じゃなくて、カレーの匂いという意味で」
「ええ、わかりますよ」小金井が微笑みながらうなずく。
なんだかすべったギャグの説明をしているみたいで恥ずかしい。それはさておき。
「そういうカレーとか、完全にメインとなる料理がダメだったら、その人だけ別の料理になっちゃうんですか」
「まあ、そうですね。そういうケースは経験ないですが、たとえばその人だけうどんをつくるとかでしょうか」
いや――、と深山が意見する。「ごはんと麺類じゃ違いが大きすぎるんじゃないか。ひとりだけうどんを啜るのも気まずいだろう」
「そっか。たしかにそうだね」
「一品物で、同じく白米を使った料理――親子丼とかどうだい?」
「うん。そのほうがよさそうだ。親子丼だとひとつだけつくるのも手間じゃないし」
仮定の話ながら、真剣にメニューを検討するふたりの様子に顔がほころぶ。
ふたりとも料理が好きなんだろうなと思える。それなりに年齢差はあるはずなのに、くだけた口調で話し合う様子も尊い。ごちそうさまです。
深山がにこにこ顔で尋ねてくる。
「ところで、今日の夕飯で食べたいものはありますか」
「え? 食べたいもの、ですか」
たしかさっき、まかないのリクエストは基本的には受け付けないと説明していたはずだが。
「いえ、今日は入居初日、最初のまかないですしね。特別、です。もちろん予算はありますし、いまからつくれるものに限られますが」
食べたいもの……。腕を組んで考える。
料理をしないからか、食べたいものと問われるとステーキとかウニいくら丼とか、下宿屋でそれはさすがにダメだろ、と思えるメニューしか出てこない。常識と節度を持ったリクエストでないと、入居早々大家に「さては、こいつバカだな」と思われてしまう。
見かねたように小金井が提案してくれる。
「それでは、先ほど大好物だとおっしゃっていたカレーライスはどうですか」
「あ、いいですね! じゃあ、カレーでお願いします」
こうして大家との初対面は和やかにすぎていった。