昭和の香り漂う「猫目荘」に引っ越してきた伊緒は、そのボロい建物を見て呆然とする/猫目荘のまかないごはん①
公開日:2023/10/7
その後、予定より早く引っ越し業者のトラックも到着し、荷物を二階の自室へと運んだ。もとより大した家財道具はなく、小金井と深山が手伝ってくれたこともあり、あっという間に引っ越し作業は終わった。
ようやくひとりの時間が訪れる。ひと息ついて床に座り、ペットボトルのお茶をひと口。積まれた段ボール箱に背中を預け、部屋を見回す。
和室の六畳一間。襖ふたつぶんの押入れ。申し訳程度の小さな台所。あってないような玄関。狭いトイレ、というか便所。
トイレが共同じゃないこと、狭いながらも洋式であること、薄暗いが不潔感がないことは救いだろうか。
部屋に唯一ある窓は木製格子のこぢんまりとしたもので、窓枠の中央にあるネジをキコキコ回して締める方式だった。しばらくはどうやって開け閉めするのか本気で悩んだ。
あらためて、昭和かよ、と突っ込む。
住人の居室はすべて二階にあり、一階は食堂などの共同施設のほか、大家の部屋もあるようだ。風呂も一階にあり、共同で使うことになる。もちろん共同といっても入るのはひとりずつだ。一回百円で、脱衣所にお金を入れるボックスが置かれている。しかし、みんな適当に五百円とか千円とかまとめて払っているらしい。
近くに銭湯もあるようだが、入浴料金を聞いてびっくりした。毎日通うなんてとてもじゃないができない。銭湯の料金は都道府県ごとに決まっていることも初めて知った。
今日からここで生活するのか、と思うと、あらためてため息が出てくる。
実家を飛び出して東京に来てからは、広さ的にはここと大差ないワンルームに住んでいた。けれど洋風で、チープではあったがよくも悪くも普通の、こぎれいな部屋ではあった。実家を含め、畳の部屋で生活した経験はない。町の銭湯に行く機会もなかった。当然、見知らぬ他人と風呂場を共用したこともない。
「ま、なんとかなるか……」
根拠のない希望をつぶやきつつ、ここに引っ越してきたのは失敗だったかな、という思いは抑えきれなかった。
悪い物件ではないと思う。
外観も内装も至るところに昭和がこびりついているが、変な臭いはしないし、じめじめしているわけでもない。おんぼろというわけでもない。大家はふたりともすごく好感が持てるし、まかないも期待できそうだ。
でも、見た目のみすぼらしさはいかんともしがたく、この部屋で生活していると、どんどん自分が惨めになっていくような気がした。自分はここまで落ちぶれたのだと、毎日現実を突きつけられるような気がした。
まかないに釣られることなく、最低限自分をごまかせる、普通の、チープであっても普通の洋風アパートに越すべきだったか。
東京に出てきて五年。その後半、少なくともここ二年は、空虚な自分と向き合うだけの日々だった。
「はい、どうも!」
突然響いた声にびくっと体が震えた。見慣れぬ和室に一瞬戸惑い、あぁ猫目荘かと思い出す。部屋は薄暗く、わずかにオレンジ色に染まっていた。口から垂れているよだれを拭う。
どうやら段ボール箱にもたれたまま午睡に落ちてしまったらしい。
室内に侵入者があったわけではなく、声は隣室から届けられたようだ。見た目からしてわかっていたことだが、この物件に防音など期待するほうが間違っている。
隣室から届く声は妙にはきはきしていて、独り言ではなさそうだし、かといって誰かとしゃべっている感じでもなかった。少し気味が悪い。
しかしすぐに、動画の配信か、と気づく。ライブ配信か、撮影をしているのではないか。そう思って聞いてみればいかにもな話し方だし、ミスって撮り直しをしている様子もあったので、ライブではなく収録をしているっぽかった。
見当がつけば気味の悪さは薄れたものの、気にはなるし、耳障りなのは変わらない。
時刻は夕方の五時三十五分。声の主は男で、声質から二十代か三十代に思える。時間的に勤め人ではなさそうだし、よもやの専業ユーチューバーだったりしたら嫌だなぁと顔をしかめた。
わたしもネットで動画はよく見るし、べつにユーチューバーという生き方を否定はしない。けれど収録の声を毎日聞かされるのは御免こうむりたかった。隣室から届くしゃべりは堂に入っていて、慰みでやっているような志の低さは感じない。登録者数四桁は確実な話し方である。だとすればかなりの頻度で収録をおこなっている可能性が高い。
隣室から届けられる声を努めて無視し、開封されないままの段ボール箱を漫然と見やった。
夕食の時間は午後七時。事前に伝えていれば三十分程度の融通は利くようだが、なるべく七時に取ってくれるとありがたい、とは言われていた。また、食堂――台所にあるテーブルだ――で取るのが原則となっている。とはいえ、やむにやまれぬ事情があれば相談には乗ってくれるようだ。
旅行や飲み会などでまかないがいらないときは、事前に大家に伝える。直接言ってもいいし、台所には伝言用の紙が用意されていたし、メッセでもオッケーのようだった。原則として、まかないを抜いてもお金が返ってくることはない。ただし一週間を超えるような長期の旅行や入院などは、ケースバイケースで対応してくれるそうだ。
住人の食事時間や場所がばらばらになれば大家の負担も増えるだろうし、わたしもわがままを言うつもりはなかった。
夕食まで少し時間がある。多少でも部屋の整理を進めようかとガムテープを剝がしてみたものの、それ以上手は動かなかった。無視しようと努めても、やっぱり隣室の声が気になる。
鼻から大きくため息を吐き出し、立ち上がる。
どんな町か、近所を少し散歩でもしよう。この部屋にいたらイライラが募るばかりだ。
<第2回に続く>