苦手なアスパラガスが再び登場…。 二ノ宮が大好物と言っていたので勇気を出して話しかける/猫目荘のまかないごはん⑤

文芸・カルチャー

公開日:2023/10/11

猫目荘のまかないごはん』(伽古屋圭市/KADOKAWA)第5回【全5回】

昭和の香り漂う古びた木造の下宿屋「猫目荘」。引越し先を探していた降矢伊緒は友人に猫目荘を紹介してもらい、1日2食のまかない付きにひかれて、内見もせず入居を決めてしまう。入居当日、まかないを食べに食堂に集まった住人たちは個性的な人ばかり。建物のボロさと、これからの彼らとの共同生活を思いため息が出ていた。しかし、ふたりの男性大家が作るクリームシチューや豚キムチなどにひと手間加えたまかない料理は伊緒を心から幸せにしてくれて…。『猫目荘のまかないごはん』は伊緒と住人たちが織りなす、美味しくて心が温まるお話です。

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猫目荘のまかないごはん
『猫目荘のまかないごはん』(伽古屋圭市/KADOKAWA)

 生あくびを嚙み殺しつつ、朝食を食べるために階下へと降りる。

 さすがに化粧はしないが、人前に出る以上ちゃんと顔を洗わなきゃだし、寝起きの腫れぼったい顔で行くのもためらわれる。寝間着のままの人もいるけれど、それはまだ抵抗があり、いちおう恥ずかしくない部屋着には着替えて降りていた。

 正直、朝からめんどくさくはある。まだバイトもはじめていないのに毎朝決まった時間、それもそこそこ早い時間に起きなきゃいけないのもつらい。

 しかしそれらのマイナスを差し引いても、ちゃんとした朝ごはんを毎日、自分で用意せずに食べられるのは想像以上にありがたいことだった。

 食堂の先客はふたり。先ほど食卓に着いたばかりと思しき茅野と、すでに半分以上食事が進んでいる新井由紀枝――四十代後半の、いちばんまじめそうな女性――である。

 新井はごはんもおかずもみそ汁も、どんな料理もすべてスプーンだけで器用に食べる。先端恐怖症だかららしい。直接彼女から教えられたわけではなく、入居日の説明時に大家から伝えられていた。奇異に思わないようにとの配慮からだろう。料理によっては事前に大家が切り分けたりもしているそうだ。

 ふたりの先客に加え、ひげもじゃのほうの大家である深山とも朝の挨拶を交わす。

 たったひと言でも、こうやって毎朝誰かと「おはようございます」と言い合えるのは心地よく、精神衛生上いいものだと実感しはじめていた。なんだかんだ言っても、やっぱり人との交流は安心感をもたらしてくれる。

 朝食にしろ夕食にしろ、まかないはどちらかひとりの大家がつくることが多いようだ。とくに朝食時は必ずひとりだった。ふたりでつくるのは手間暇のかかる料理のときだけかもしれない。朝食と夕食と担当が決まっているわけでも、一日ごとの交互というわけでもなく、不規則な感じだった。

 置かれたばかりの茅野の皿を見る。猫目荘での朝食は基本的には和風寄りである。

 ごはんとみそ汁、納豆はほぼ毎日の定番。今日はそれに玉子焼きと茹でたソーセージに、温かい豆腐――温奴と言うらしい――がある。そしてこれもほぼ毎朝出るサラダに目をやったとき、胃の奥がずんと沈むような感覚に囚われた。トマトとレタスに加えて、グリーンアスパラガスがある。

 密かに暗く沈むわたしとはうらはらに、すぐあとにやってきたユーチューバー(確定)二ノ宮がはしゃいだ声を上げる。

「おっ、いいですね! アスパラガス! ぼく大好物っすよ」

「よかったです。いまが旬ですからね。おいしいですよ!」

 台所から深山が軽快に答えた。

 わたしはこの会話でアスパラガスがいまが旬なのだと知った。前回のカレーにアスパラガスが入っていたのも、それが理由だったのだろう。

 そもそも料理に興味がないので、食材の旬とか知らないし、考えることもない。アスパラガスは好んで食べる食材でないからなおさらだ。

 料理を運んできた深山に笑顔でお礼を言いながら、サラダを見つめどうしようかと悩む。

 猫目荘のまかないはどんな料理も大皿から取り分けるようなことはしない。場所は共有しているが、あくまで個人の食事で、最初から分けて提供される。だからトマトとレタスだけを取るということもできない。

 野菜を盛りつけただけのサラダなので、素材の味わいダイレクトアタック確定だ。ドレッシングはあるにせよ、カレーのようなごまかしは利かない。いい歳をした大人がアスパラガスだけを残すのも恥ずかしい。でも……。

『嫌いなものを無理に食べることはないよ。尋常ならざる偏食家ならともかく、ひとつやふたつ、十や二十、食べられないものがあったってなんら問題ない。世の中には星の数ほど食材があって、たったひとつの食材にしか存在しない栄養なんてないんだからね。それより嫌いなものを嫌々食べるストレスのほうが体に悪いに決まってる』

 大学生のときに読んだ小説のセリフがよみがえる。

 母は好き嫌いに厳しい人だった。父もだ。ちゃんと食べなきゃ農家の人に失礼、料理をつくった人に失礼、健康になれない、などと脅され、無理やり食べさせられた。

 そのおかげと言いたくはないけれど、だからどんな食材も我慢すれば食べられるようにはなった。でも、やっぱり、苦手なものは苦手だ。

 そんなわたしに、このセリフがどんなに救いになったか。

「あの――」

 勇を鼓してわたしは声を上げた。それでも周りに届いたか不安になるほど小さな声になってしまったので、もういちど「あの」と言う。

「アスパラガス、食べられないことはないんですけど、あんまり好きじゃなくて。もしよかっ――」

 すべてを言い終わる前に二ノ宮が満面の笑みで声を張り上げる。

「じゃあ、ぼく貰ってもいいですか」

「あ、はい、お願いします」

「ラッキー! じゃあさ、代わりにトマトどうすか。食べられないことはないんだけど、積極的には、って感じで」

「あ、トマトは好きなんで、ぜひぜひ」

 再び彼は「ラッキー!」と叫び、嬉々としてわたしのボウルからアスパラガスを取り、代わりにわたしはトマトをいただいた。トマトこそ苦手な人が多い印象だけれど、野菜のなかではいちばんってくらい、わたしは昔から大好きだ。

 これをきっかけにわたしが食卓の会話に加わることもなく、これまでと同じように、大家と茅野と二ノ宮の会話を聞きながら、黙々と食事を進めた。

 でも、なにごともなかったようないつもどおりの空気が、とても心地よかった。これまでずっと感じていた、肩身の狭さ、あるいはよそ者感が、少し和らいだ気がする。

 温奴に箸を伸ばす。温奴はこれまでも何度か朝食に出ていて、そのたびに味つけが変わるのも特徴だった。それもチーズやキムチなど意外な食材との組み合わせが多く、そのどれもが抜群においしいのも驚きだった。豆腐というヘルシーな食材ながら食べ応えがあり、おかず感が強いのもありがたい。

 大家の説明によると、今日はなめ茸に生姜を加え、醬油をかけたものらしい。これまでに比べれば奇抜さは低めかもしれないが、わたしにしてみれば豆腐になめ茸も充分に面食らう組み合わせだ。

 口に運ぶ。温かい豆腐のやわらかさと、ぬるぬるとしたなめ茸の食感は想像以上に合うものだった。口のなかで溶けあい、舌の上が幸福に満たされていく。さらにときおりピリリと感じる生姜の刺激が絶妙なアクセントとなっていた。豆腐、なめ茸、生姜、すべてを醬油が下支えして、味を一段高みに運んでくれる。

 人生でいちばんおいしい豆腐、というのは言いすぎだろうか。本当にそれくらいおいしかった。

 でもおいしさの四割か五割は、わたしの気持ちが晴れやかだったからかもしれない。

 アスパラガスが苦手だと言えたこと。猫目荘に来て、ようやく一歩を踏み出せた気がする。

 こんなに簡単なことだったんだ――。一歩を踏み出したあと、いつも思うこと。

 でもやっぱり、次の一歩を踏み出すのに、わたしはきっと躊躇する。

 それでもわたしは「猫目荘でやってけるかな」という予感を抱いていた。

 どうせすぐに引っ越すお金もないしね。

<続きは本書でお楽しみください>

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