芥川においてけぼりにされた百閒は何を思うのか『百鬼園事件帖』三上延インタビュー
公開日:2023/10/10
※本記事は、雑誌『ダ・ヴィンチ』2023年11月号からの転載です。
「内田百閒事件帖があったら面白いですよね」。飲みの席での編集者のそんな一言から、三上さんの最新作『百鬼園事件帖』は始まったという。内田百閒は、三上さんの大好きな作家だ。「ビブリア古書堂」シリーズの第8作『ビブリア古書堂の事件手帖〜扉子と不思議な客人たち〜』にもその短編『王様の背中』が登場する。
取材・文=松井美緒 写真=TOWA
「百閒は高校の頃から熱心に読んでいました。とくに『冥途』や『旅順入城式』などの怪奇ものが好きでした。百閒は名文家としてもよく知られています。物事の気配や何か起こったときに比喩、そういう表現が非常に上手いんです。自分が作家になるときにも影響を受けました。というか、こんなふうに書けたらいいなと思います」
『百鬼園事件帖』の舞台は、昭和6年冬から8年春までの東京。大学生・甘木は、神楽坂の「不純喫茶・千鳥」で、彼の通う私大のドイツ語教授だった百閒と出会う。背広がもたらす不思議な夢(第1話「背広」)、千鳥の謎の女給と人語をしゃべる猫(第2話「猫」)……二人が遭遇する怪異の数々は、たとえ内田百閒を知らなくても、ものすごく面白い。同時に、非常に知りたくなる。内田百閒ってどんな人だったんだろう?
「百閒好き嫌い事典」を自作する
内田百閒に強く興味を惹かれるのは当然理由があって、それほど完璧に百閒と彼を巡る人々、世界観を三上さんが作り上げているのである。
「この時期の百閒はまだ何者でもありません。小説は書いているけれど、名は知られてはない。自分のこれからに、まだ迷いがあったんじゃないでしょうか。そういう百閒を書くのは面白いだろうと。ただ、こんなに苦労するとは(笑)。百閒らしさを失わずに、小説のキャラクターとして成立させるのは大変でした」
作中には、百閒を知るとニヤッとしてしまう設定がちりばめられている。実際にご覧になって発見の喜びを味わっていただきたいので多くは挙げないが、例えば第1話「背広」は、夏目漱石の門人だった百閒が、漱石の背広(あの有名な椅子にもたれた肖像写真の背広である!)を形見分けされた話に基づいている。また、前述の「甘木」という語り手。
「『阿房列車』シリーズなどで百閒が好んで使った名前で、『某』を上下に分割したもの。要するに、某氏です。僕も百閒の相手役を登場させるなら、甘木しかいないかなと」
さらに物語の中の百閒の嗜好には、ほぼすべて出典があると言う。
「百閒の全集をはじめから読んで、彼の好きなもの、嫌いなものをすべて抜き出しました。自作『百閒好き嫌い事典』です」
三上さんが見せてくださったタブレットには、本当にびっしり羅列されていた。嫌い:漱石のお墓、忠臣蔵……。好き:トンカツ、ビール(でも美味しすぎるとよくない)、美味しくなくても気持ちのいい店……。これはもしかして?
「千鳥はここからの発想です」
この一覧を見ると。
「百閒が愛着を持ったのは、子どもが好きなものばかりです。トンカツ、猫、鳥、飛行機、汽車……。だから教え子の学生にも慕われ、多くの読者にも愛されたのではないでしょうか。百閒の人柄や文章に、かつて自分が愛したもの、失ってしまったものを見つけるのかもしれません」
元祖オタクでもありますね?
「間違いありません。『阿房列車』シリーズは、乗り鉄の極みです」
『百鬼園事件帖』でもう一つ重要なのは、当時の東京の空気感だ。関東大震災からまだ10年弱。その傷が人々の心には残っている。百閒も、大切な弟子の一人、長野初を震災で喪った。
「作中にも書きましたが、百閒は毎年9月1日に震災記念堂(現・東京都慰霊堂)を訪れていたようです。ただ、『長春香』で長野初さんのことを綴るのは震災から12年後です。振り返るには、それほどの時が必要だったのでしょう」
三上さん自身、関東大震災とその後の時代にはつながりを感じる。
「僕の祖父が被災したんです。あまり多くは語りませんでしたが、やはり大変な経験をしたようです。同時に、現代と似ているとも思います。東日本大震災以降、復興は進んでいるかもしれないけれど、皆の記憶は消えない。亡くなった方、被災した方のことを折に触れ考える」
百閒と芥川とドッペルゲンガー
第3話「竹杖」は、『百鬼園事件帖』の柱とも言える。描かれているのは、百閒と芥川龍之介の物語である。
「1話目の時点ではまだ何も決めていなかったんですが、書き進むうちに、やはり百閒と芥川の関係は正面から扱っておきたいと」
二人は、漱石の門弟同士として知られ、百閒は芥川についての随筆を多く残している。
「芥川には別に親友がいましたが、親友とは違う形で百閒と芥川には特別なつながりがあったんじゃないでしょうか。二人はよく似ています。頭の回転が早くて、文学的な才能もあって、ちょっと変わり者。二人で話し出すと止まらない、みたいな感じ。この小説に書いているのはフィクションですが、いろいろ調べると現実の二人の関係にも通ずる部分があったようで、それは嬉しい発見でした。少なくとも百閒は、芥川を心の支えにしていたと思います」
「竹杖」には、前述の関東大震災後の東京が色濃く表れている。昭和7年の、まさに9月1日。「今日はどこへ行ってもおかしな気配が漂っている」――百閒を訪ねた夜、甘木は、すでにこの世にいない芥川のドッペルゲンガーと邂逅する。
「ドッペルゲンガーは実際に百閒と芥川の間で話題になっていたようです。あくまでこの小説の中では、ですが、芥川は理知的な世界にいます。対して百閒は、異界との境界に立っている。でも精神的に追い詰められた芥川は、徐々に百閒に近づき、さらに飛び越えて向こうの世界へ行ってしまう。百閒は、境界線上に置いてけぼりにされてしまった。そこで百閒は何を思うのか、それが非常に大きなテーマでした。おそらく、自分がなぜ生きているのか、その意味を考えたんじゃないでしょうか」
百閒は、これまでなぜ甘木とともに怪異を解決しようとしてきたのか。芥川のドッペルゲンガーは何のために現れたのか。その謎が、「竹杖」のラストに収斂する。それは感動的に美しく、思わず震えてしまう。百閒と芥川……エモい!
「ありがとうございます。そう思っていただけるといいなあと思って書いていました」
最終話「春の日」は、三上さんのお気に入りだと言う。
「この世あらざる者ともし宴会をしたら。自分だったらああいう感じになるんじゃないだろうか。それを明るくも暗くもなく、上手く書けた気がします」
『百鬼園事件帖』は、喪い続ける百閒の物語であったように思う。
「大切な人たちを喪ったときにどうすればいいのか、簡単に答えが出るものではないからこそ百閒は文章を書いたんだと思います。書き続けることが、きっと彼には大切だったのではないでしょうか。そうすることで、自分の中に収まりをつけていたのではないかと少し思います」
読者としては、第2弾に早くも期待してしまう。
「僕もぜひ続編ができたらと。この後、百閒は大学を辞めて人気作家になっていくので、その辺りを書けたらいいなと思います。今作では名前だけ出した、やはり漱石門下で友人の森田草平も登場させたいですね」
三上延
みかみ・えん●1971年、神奈川県生まれ。中古レコード店、古書店勤務を経て、2002年『ダーク・バイオレッツ』でデビュー。11年、『ビブリア古書堂の事件手帖』を発表し、ベストセラーシリーズとなる。14年、『ビブリア古書堂の事件手帖4』が第67回日本推理作家協会賞長編および連作短編集部門にノミネート。他の著作に『江ノ島西浦写真館』『同潤会代官山アパートメント』など。