又吉直樹が綴る10年ぶりのエッセイ集。“黙らない脳”の中身を赤裸々に描いた、記憶と思考の欠片たち『月と散文』

文芸・カルチャー

更新日:2023/10/30

月と散文
月と散文』(又吉直樹/KADOKAWA)

“私は無口だが脳がしつこいほどお喋りで、なかなか黙ってくれない。なにも考えたくなくて黙っているのに、脳が勝手にずっと喋っている。”

 又吉直樹氏によるエッセイ集『月と散文』(KADOKAWA)の一節である。「脳が黙ってくれない」という感覚が、私の中にも常に存在する。私の場合は、過去の記憶と連結する形で脳が喋り倒すことが多い。「黙れ」と言っても黙らない脳に、時々辟易する。著者の脳が語る内容は、過去に起因するもののほか、空想や言葉の奥深さなど、幅広く趣がある。

 序章を含め、全66話にも及ぶ散文は、過去と現在を行ったり来たりする。時間の流れは誰しも、過去、現在、未来へと進んでいくが、脳内は違う。過去の失敗を思い出して身悶えしたかと思えば、まだ見ぬ未来の心配事を憂いたりする。そして、その5分後に今現在の幸福にふっと微笑む時もある。本書は、そんな日々のつれづれなる記憶と共に、著者の空想遊びや思考の欠片が綴られている。ここでは、その中から印象に残ったエピソードを2つ紹介したい。

 まずは、「あの頃のようには本を愛せなくなってしまった」について。著者は、本屋を巡るのが好きだった。中でも古書店をこよなく愛し、毎日のように書棚に並ぶ背表紙を追い続けていたという。

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“こんなにも優しい友達は僕にはいなかった。”

 本のことをこのように語る著者に、勝手ながら親近感を覚えた。しかし、著者が執筆した小説『火花』が芥川賞を受賞したことに端を発し、著者は書店を「恐ろしい」と感じるようになる。それは、一部の文学者が「芸人が小説を書いた」という側面だけで作品を語る現実に打ちのめされたからだった。

“それでは、「今の時代、差別は駄目」と言っている低俗な輩と同じではないか。差別はいつでも駄目なんだよ。”

 文学は本来自由なもので、書きたい人が書けばいい。作品について語るなら、作品の内容について語ればいい。そもそも職業に貴賤はなく、どの仕事も平等に尊い。ジョージアのCMの言葉を借りるなら、「世界は誰かの仕事でできている」のだ。己の作品内では自由を尊ぶ人たちが、現実では著者の職業にこだわるなんて滑稽だ。創作をする権利は、誰しも持っている。人権と同じだ。「差別はいつでも駄目なんだよ」――これをためらいなく言い切る著者の作品を私は“読みたい”と思う。それは、著者の職業と何ら関係ない。文章に惹かれたから読む。ただそれだけの話だ。

 もう一つ、「『繊細だと自分で主張する人は繊細じゃない』と馬鹿が言う」について紹介したい。己の繊細さに戸惑う日々を送る人々は、おそらくタイトルを読んだだけで「よくぞ言ってくれた!」と諸手を挙げるだろう。こちらの散文は、わずか2頁である。だが、その2頁の中に「繊細な人が陥りがちな思考」がぎゅっと詰まっている。

「自分は繊細な感情の持ち主です」と言い出しにくい風潮が強まったのは、いつからだったろう。HSP(Highly Sensitive Person)という言葉が世間に認知されはじめ、ようやく繊細であるがゆえの生きづらさを言葉にできる人が増えはじめたあたりから、バックラッシュがはじまったような気がする。繊細であることに限らず、「◯◯な人は△△なはずだ」という論調が好きではない。そんな雑な枠組みに押し込められるほど人間が単純な生き物であったなら、この世界を生きるのはもっと容易い。そうではないから、苦しいし悩むのだ。著者の言葉は、繊細な人のみならず、何らかの決めつけに生きづらさを感じている人に静かに染み入るだろう。

 ほかにも、「って言ってたよ」や、「家で飼えない孤独」など、付箋を貼った箇所は数えきれない。私はいつも、本を読んで印象に残った一節に付箋を貼る。その部分を手書きで写経する時間が、私にとって何よりも幸福なひと時だ。この感覚を理解してもらえることは、あまり多くない。でも、そんなことはどうでもいい。本書の終盤に記された「死神」の一節にもあるように、“無駄なことに時間を使っている暇なんかない”のだ。やりたいことをやりたいようにやる。それでいい。

 著者が自由に書き綴った散文は、私の心を自由にしてくれた。いろんな人が、いろんなことを言う。それらに少し疲れたら、月を眺めながら本書の頁を気ままにめくろうと思う。

文=碧月はる