東野圭吾の加賀恭一郎シリーズ最新作。5人を殺害した犯人の狂気に隠された真実と、交錯する当事者たちの違和感を暴き出せ!
更新日:2023/10/30
誰かを「殺したい」と思うことと、それを実行に移すことは別次元の話だ。しかし、その境目は恐ろしいほど淡く、ふとした拍子に踏み越えてしまう人も多い。恨み、妬み、憎しみ。これらの感情が理性を凌駕した時、人は過ちを犯す。
東野圭吾氏による最新作『あなたが誰かを殺した』(講談社)は、閑静な別荘地で起きた連続殺人事件の謎解きを描いたミステリー小説である。本書には、東野圭吾作品を代表する名物刑事・加賀恭一郎が登場する。ドラマ化された『新参者』や、映画化となった『麒麟の翼』を通して加賀刑事のファンになった人も多いだろう。
加賀刑事の魅力は、深い洞察力や推理力だけにとどまらない。冷静沈着でありながら人としての思いやりを忘れず、周囲を気遣う心と広い視野を持ちあわせている。その上で、ここぞという場面では一切容赦しない。それが、加賀恭一郎という人物だ。本書の中で、かねてより加賀を知る人物は彼のことを次のように語る。
“覚えておいて。あの人に嘘は通用しない”
閑静な別荘地でバーベキューパーティが開かれる場面から物語は幕を開ける。パーティの参加者は総勢15名。のちにその中の5人が殺害され、一人が重傷を負うことになるのだが、犯人は意外にもあっさりと捕まった。犯人の名前は、桧川大志。「死刑になりたかった」という至極身勝手な動機で5人もの殺害を実行した桧川は、犯行後に最後の晩餐を楽しんだのち、凶器持参で自首した。しかし、不可解な点がいくつかあった。桧川は犯行の詳しい手口を一切話そうとせず、現場の状況からも「猟奇殺人者の突発的な犯行」として片付けるには不自然な矛盾点が見つかった。そこで、遺族の一人である高塚俊策が「事件の検証会をしよう」と提案する。
検証会には、バーベキューパーティに参加した6家族の遺族と、重傷を負った的場雅也の計10名が参加を決めた。そのほか、各家庭から2名まで同行者が認められていた。当事者以外の客観的視点が、真相解明への糸口につながるかもしれない。そんな期待を込めて設けられたルールであり、白羽の矢が立ったのが加賀恭一郎その人であった。
加賀を同行者として選んだのは、夫の英輔を殺害された鷲尾春那だ。正確には、職場の先輩に同行を頼んだところ、その先輩が「適任者がいる」として紹介した人物が加賀だった。思わぬ形で警視庁刑事部捜査第一課の刑事と同行することになった春那は、戸惑いながらも心強さを抱き、迷宮と呼ぶにふさわしい「検証会」へ赴くこととなる。
非当事者のほうが冷静に話を進められるとして、検証会では加賀が司会進行役を務めた。加賀は持ち前の丁寧な聞き取りと深い洞察力で、徐々に事件の概要と矛盾点を明らかにしていく。その手腕に感嘆を覚えた春那は素直に称賛の言葉をかけるが、加賀はあっさりとこう返した。
“「事件についてはある程度わかりましたが、まだ皆さんのことを何も知りません。全くの白紙です。このホワイトボードみたいにね。これでは到底真相に辿り着けそうにありません」”
「何が起きたか」は、それぞれの証言をもとに時系列に沿って組み立てればある程度判明する。だが、「なぜそれが起きたのか」は、対象者の人となりを知らなければ辿り着けない。嘘をついている者、知っていることを隠している者、関係者同士の力関係、各人の人間性やバックグラウンド。もつれ合ったそれらをゆっくりとほどいていく作業は、大いなる痛みを伴った。だが、加賀は怯むことなく真相解明に向かって進んでいく。その中で、検証会に思わぬ人物が紛れ込んでいる事実が発覚する。
人が人を殺す時、正常な精神状態であるわけがない。正常であるならば、そんなことはできないからだ。しかし、何らかの要因が重なり、殺したいほど憎い相手の命を奪う機会が目の前に転がり込んできたとしたら、その衝動を抑え込むのは至難の業といえよう。殺人は決して許されない行為だ。だが、相手に殺意を抱かせるほど心に深い傷を負わせた人間もまた、加害者にほかならない。本書で「加害者」と呼ばれる人物は、同時に「被害者」でもあった。
日頃、周りの人間にどのように接しているか。大切にすべき人を蔑ろにしていないか。己を振り返る人が増えれば増えるほど、悲しい事件は減るだろう。生まれ落ちた瞬間から憎しみを抱いている人間など、本来一人もいないのだから。本書の終盤で犯人が漏らした本音が、胸に深く残っている。人は、弱くて悲しい生き物だ。だからこそ、強く温かい心で支え合い生きていくことだけが、狂気を食い止める唯一の手段なのかもしれない。
文=碧月はる