「意味のある我慢」と「意味のない我慢」。疲弊するだけの我慢に意味はあるのか/そんな我慢はやめていい

暮らし

公開日:2023/10/20

 現代社会では、仕事、育児、人間関係などのあらゆる場面で「我慢」がつきもの。でもその我慢、あなたの幸せにつながりますか?

 『そんな我慢はやめていい 「いつも機嫌がいい自分」のつくり方』は、人生を幸せにする「意味のある我慢」と、幸せにつながらない「意味のない我慢」を区別する視点を与えてくれます。「意味のない我慢」からは逃げてもいいし、無理してがんばらなくてもいいのです。

 他人の目、場の空気、同調圧力などを気にせずに、自分らしくご機嫌で生きられるヒントを探してみませんか?

 今回は自身に成長や喜びをもたらす「意味のある我慢」とは何かをご紹介します。同時に「意味のない我慢」から逃れる術も模索してみましょう。

※本作品は『そんな我慢はやめていい 「いつも機嫌がいい自分」のつくり方』(午堂登紀雄/日本実業出版社)から一部抜粋・編集しました

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そんな我慢はやめていい 「いつも機嫌がいい自分」のつくり方
『そんな我慢はやめていい 「いつも機嫌がいい自分」のつくり方』(午堂登紀雄/日本実業出版社)

意味のある我慢、意味のない我慢

●将来の自分の幸福につながるか?

我慢には、「意味のある我慢」と「意味のない我慢」があります。

「意味のある我慢」とは、自分の成長や達成感、喜びにつながり、将来の自分の幸福に寄与するような我慢のことです。

 わかりやすい例では、部活の練習や受験勉強です。しんどくつらくても、我慢してがんばったその先に、勝利や合格といった結果によって自分の未来が開ける可能性があります。

 社会人になってからも、たとえば「英会話を学ぶことで外資系企業への転職の可能性が高まる」「仕事に関連する公的資格を取得することで昇進の可能性が高まる」「プロジェクトの佳境」など、「ここが我慢のしどころ」という場面があると思います。

 もし挫折しそうになっても、それらを乗り越えたら、「達成感」「充足感」「自分が認められた喜び」という感覚を得られるでしょう。

 もう一方の、「意味のない我慢」とは、喜びや成長、充足などになんら結びつくことがなく、自分の精神が削られて疲弊するだけの我慢のことです。

 たとえば理不尽なパワハラ上司におびえて我慢して、仕事の成果は上がるでしょうか。家族の介護に振り回されて、幸福な未来が約束されるでしょうか。

 そういった我慢からは一日も早く足を洗い、そこから逃れる術を模索するほうが、自分の心の平穏のためにも望ましいはずです。

 ただし、「何に意味があるか、何が無意味なのか」は人によって異なります。

 その人の掲げる目標や最終的な目的が人によって違うからです。

 たとえばスポーツでも、「楽しむこと」を目的にするのと、「試合に勝つこと」を目的にするのとでは、練習の価値が異なります。

 試合に勝つための練習は、当然ながら「しんどい(負荷が大きい)」ほうが価値があるわけで、我慢してでもがんばる意味がある、というのは前述のとおりです。

 一方、社会人になってからの趣味のスポーツなどでは、多くの人にとっては、「楽しい」「気分転換になる」「ストレス発散になる」「運動不足解消になる」ことに価値があり、目をひんむいた自分を追い込むキツイ練習はそぐわないわけです。

●「知的にしんどい」には価値がある

 私自身は、二〇代から三〇代前半のころの仕事は「知的にしんどい」ほうが価値があると思っています。「知的にしんどい」とは、複雑で難しくて先行き不透明で、さらに面倒くさくて時間がかかり、容易には完成しないことを表わします。

 たとえば企画書や提案書などは、一〇〇%の正解や完成がない世界であり、斬新な企画を考える創造力、それらをデータなどで裏づける分析力、他者を納得させ巻き込むような表現力を磨く必要があります。

 プロジェクトマネジメントでは、メンバーの特性を見ながらタスクを割り振り、スケジュール管理や品質管理をして、期限までに一定以上の成果を出すことが求められます。

 面倒くさい顧客とのやりとりも、コミュニケーション力が求められます。

 そして前例のない仕事は結果がどうなるかわからず、それでも都度、適切に判断し行動しなければなりません。

 それらを乗り越えれば思考力や判断力がつき、総合的な知的レベルが向上すれば、苦労せずとも適切な意思決定ができるようになります。

 すると昇進や昇給によって、より高いレベルの仕事ができるようになり、さらに仕事の実力がつき、キャリアの可能性も広がり、四〇代以降の生活が格段にラクになります。

 私が二〇代から三〇代にかけて、がむしゃらに働いてきたのも、量は質に転換することがわかっていたからです。全力疾走したときのトップスピードが上がれば、流して走ってもやはり速くなるようなものです。

 逆に思考力や判断力を研鑽するのをサボれば知力は向上せず、意思決定も判断も稚拙なままです。ちんたら走っていればトップスピードも上がらず、それでは流して走ってもやはり遅い。これでは老後も苦労が絶えないでしょう。

 ただし、これは私の価値観であり究極的な目標でもある「自由を得る」ための考えであって、当然そうでない人もいると思います。

 このように、「どの我慢に意味があるか、ないか」は、人によって異なり、目的によっても異なるわけで、それを「長期的な視点」で「自分にとって有利になるのはどちらか」を峻別する力が必要なのです。

 しかし、これが案外難しい。

 その場さえしのげればいい、いまさえよければいい、いちいち立ち止まって考えるのは面倒だ、などと知的なプロセスをないがしろにしてしまう人には、適切な峻別ができないからです。

「意味のある我慢」と「意味のない我慢」を見極めるには、高い視座と広い視野、深い洞察力、長い時間軸での想像力、それらを瞬時に脳内で展開させ駆け巡らせる思考の反射速度が必要だといえます。

<第2回に続く>

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