飲食店の本なのに料理描写が少ない?“お客さん”ばかりを描いても面白い、飲食店が舞台の異例の1冊
公開日:2023/11/21
今の世の中には、一般人が飲食店を紹介・評論するコンテンツが溢れかえっている。一方で「飲食店の人間がお客さんについて書いた文章」というのはほとんど見かけない。
その背景にはプライバシーの問題もあるだろうし、“お客様が神様”という言葉もあるこの社会では、店側の人間がアレコレと客を評論するのは炎上リスクがデカすぎる……という問題もあるだろう。
そんな状況だからこそ、料理人であり飲食店プロデューサーである稲田俊輔さんの書いた『お客さん物語 飲食店の舞台裏と料理人の本音』(新潮社)は、かなり異例の本といえる。
本書では、お金を落とさない一人客や、料理をロクに味わわない宴会客、クリスマスディナーの日だけ訪れる客、低評価を付けてくるレビュワーを飲食店側はどう思っているのか……というぶっちゃけ話も語られる。
非常に危ない内容に感じるかもしれないが、実際に読んでみると、客側の立場として怒りを覚えるような描写は一切ない。というより、一つ一つのエピソードがすこぶる面白い。
たとえば「店を出た後もっとずっと大事なメインイベントがあんねん。その前に満腹で苦しくさせてしもたら却って気の毒やろ」と言って、クリスマスの日だけ料理の量を減らしていたイタリアンのシェフの話には笑ってしまった。
また「キャリーバッグを引いて店に入れば、出張ないしは一人旅と思われるので、お一人様客の免罪符になる」というアドバイスには深く納得。個人店が生き抜くのが厳しい時代状況も慮り、「少々大袈裟かもしれませんが、店はその一つ一つが文化です」「我々お客さん側は『代が替わって味が落ちた』なんてことを言うのはもうやめましょう」と綴った文章には飲食店に対する深い愛も感じられた。
一つ一つの逸話に具体性も奥深さも溢れているのは、稲田さんが学生時代から様々な飲食店でアルバイトを重ねてきた人であり、本業が飲食業界の中の人となった後も、客側の人間として様々な飲食店を楽しみ続けているがゆえだ。
そして本書を最後まで読み通してふと思ったのは、料理の味についての描写が非常に少なかったということ。筆者も書き手の端くれとして感じることだが、「料理の味について書かずに飲食店の良さを描写し、面白い文章にする」というのは思いのほか難しいことだ。
以前、作家の西加奈子さんが小説家になった理由として、「情報誌のライターをしていた頃、お店や料理のことを書かなきゃいけないのに、『お茶を持ってきてくれた人の手が震えていた』みたいなことの方が面白くて、そういう話を書きたかった」と話していて感心したことがあった。
その逸話に重ねて考えれば、料理の描写を省いても飲食店という場を面白く書けてしまう稲田さんは、物語の書き手としても一流なのだろう。その一方ではゴリゴリのレシピ本も出していたりするので、本当にすごい人だな……と改めて感心させられる内容だった。
文=古澤誠一郎