全裸のうら若き男女が「温泉に乗る」奇妙な冒険短編。欲望を掻き立てられるも、満たされない筒井康隆の『エロチック街道』

文芸・カルチャー

更新日:2023/11/21

エロチック街道
エロチック街道』(筒井康隆/新潮社)

 たとえば今、相当な空腹に襲われてぺこぺこだとする。歩いていると目の前に中華料理屋の扉が開き、中からにんにくと胡椒のきいたよだれの出る匂いが鼻をくすぐってくる。しかし店に入ると、ラストオーダーが過ぎていて食べられないと言われる。美味そうにチャーハンや酢豚を食べるお客を横目に、呆然と立ち尽くすしかない……。

 そういった欲望を中途半端に掻き立てられた後に、お預けにされるような飢餓感……満たされずにもどかしく煩悶することはないだろうか。

エロチック街道』(筒井康隆/新潮社)の表題作は、まさに好き勝手に我々の欲望を掻き立てておきながら、食事の盛られた皿をいきなり取り上げ、飢餓感を植えつけてくるような短編だ。ただし、エロチック街道という題名だからといって、むやみやたらに「性欲」だけを刺激するような、そんな内容と決めつけてはいけない。これは、あらゆる欲を刺激する物語なのだ。

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 第一に刺激されるのは「酒を呑みたい」という欲望だ。この短編は、主人公の男が、タクシーの運転手に「帰りの燃料がなくなるから乗り換えてくれ」と見捨てられ、ある見知らぬ町で降ろされたところから始まる。「酒が呑める」というタクシーの運転手の言葉もあったようで、酒への渇きを感じている状態。しかし、時刻は夜の7時半を少し過ぎたくらいだというのに、人通りは少なく、繁華街のざわめきなんかもまるでない……。

 このあたりの「酒が呑める店」に辿り着くという、言ってしまえば至極簡単に達成できそうな目標が遠く感じられ、いつまで経っても辿り着けないのではないか、という不穏な雰囲気は、カフカの『城』(新潮社)を感じさせる。どこかに閉じ込められているかのような閉塞感に、主人公の男よりも先に、読んでいる僕のほうが窒息しかかってしまいそうになり、喉が渇き、思わず飲み物に手を伸ばしてしまいそうになる。そうして気がつく。

 この物語は、一度目の前に出して見せられた「欲望」を、ひょいと取り上げて棚の上のほうに置いてお預けするような、そんな意地の悪さがあるのだ、と。読者のほうが「まだか、まだか」と焦燥してしまう。主人公の男の欲望が、読者の欲望にすり替わり、耐えさせられるような無慈悲な物語なのだ。

「酒」の次に刺激される欲望は、やはり「食欲」だ。男はやっとのことで辿り着いた酒を出す店で、食事を注文しようとする。壁に書かれたメニューを見ると「ヤセサソリ」と書かれている。他にもあるが、どれも聞いたことがないメニューばかり……。

 読者はここでこう思うだろう。「ヤセサソリ」と聞いても「痩せたサソリ?」と何の事か分からず、美味しそうだとも思えず、むしろ語感だけで考えれば食欲を効果的に刺激するわけでもない。しかし、男が食べたところによると、それは「魚のようでもあり貝柱のようでもあったが塩辛い」らしい。ここで読者は置いてけぼりに遭う。食欲を中途半端に刺激されながら、何を食べているかいまいち分からないので、イメージもつかず、欲求不満に陥ってしまうのだ。こうして、読者の欲望を刺激しつつ、取り上げてしまう「酒」と同じような構造に、苦しみと悶えを感じるのだ。

 最後に刺激するのが「性欲」だ。タイトル通り、こここそが主題なのだろう。

 ただし、そういった性欲を刺激する店に行くとか、そういった話ではない。男は、目的地の途中でこの町に置いていかれたため、次の町に向かうことにする。男がヤセサソリを出してくれた女の店員に次の町に行くにはどうすればいいかと尋ねると「温泉にお乗りにならんのですか」と言われる。温泉に……乗る……!?

 女店員に教えられた通りに進み、左右に切り立つ背の高い岩の崖の間の暗くて狭い道を歩いていくと、温泉旅館に到着する。2000円を払って中に入ると、湯女とも言うべき若い浴衣姿の女が3人いて、見ると畳の上にべったり尻をおろしていて肉感的だ。浴衣の下には何もつけていないらしい。彼女たちに「服を全部脱げ」と言われ、服を脱ぐと、別の1人の女(彼女も全裸になる)に案内されるままに、流れる温泉に身を浸し、彼女の後を追い、水路を泳いで進んでいく……。これこそが、温泉に乗るという行為らしい。

 このエロチックな雰囲気こそあるものの、直接的な性描写もない、奇妙な洞窟内を全裸で泳ぐ冒険譚には「千と千尋の神隠し」のような不気味さを抱かせる。そして、主人公の男もそうだが、読者である我々の欲望を刺激しておきながら、「温泉に乗る」という純粋な目的が覆いかぶさり、我々の手から、「欲望」は叶えられることなくすり抜けていくところに本書の妙がある。裸のうら若き男女が出てきておきながら、必死に温泉に乗っているのである。

 彼らがお互いに抱いている欲望は首尾よく果たされるのか? まさに欲望を掻き立てておいて皿を取り上げるようだが、その詳細はここでは控えることにする。この記事を読んでいる読者もまた、行きどころのない中途半端に刺激された欲望を内に抱えたまま、満たされることなく、煩悶するのかもしれないが。

文=奥井雄義