迷いと不安、そして震災――人気ミステリー作家・柚月裕子がデビューからの15年間を語った初エッセイ集
PR 公開日:2023/10/18
さまざまな人間の生き様を活写する「作家」という人々。人間という生き物を普通以上に詳しく見る仕事だけに、そうした作家たちが「自分自身」を語る「作家のエッセイ」には一味違う面白さがあるように思う。このほど登場した人気ミステリー作家・柚月裕子氏による初めてのエッセイ集『ふたつの時間、ふたりの自分』(文春文庫)もそうした一冊といえるだろう。作家生活15年となる節目に出版された文庫オリジナルの本書には、これまでさまざまな媒体で書いてきたエッセイがひとつにまとめられており、「作家・柚月裕子ができるまで」を知ることができる一冊となっている。
柚月裕子氏といえば、日本推理作家協会賞を受賞し映画にもなった『孤狼の血』(KADOKAWA)や、NHKでドラマ化された『盤上の向日葵』(中央公論新社)などのヒット作品を思い浮かべる人も多いだろう。そんな柚月氏が作家デビューしたのは2008年のこと。いきなり「このミステリーがすごい!大賞」に『臨床心理』(KADOKAWA)が輝いたことに始まる。それまで主婦をしながら山形市の小説家講座で学んでいた柚月氏は、「自分がどこまで小説というものを書けているか」を知りたかったため、一次予選を通過すればサイト上で短い選評がもらえる本賞に応募したのだという。それがまさかの大賞受賞。驚くのはもちろんだが、喜びより先にきたのは「果たして2冊目が書けるのか」という大きな不安だった。その後2冊目を刊行してなんとか作家生活も軌道にのったように見えるが、それでも「作家として生き残ること」の不安に襲われたようだ。その都度、先輩作家の言葉、友人との対話、大好きな本など、さまざまな「大切なもの」が確実に彼女の背中をやさしく押し、奮い立たせ、また前に進む勇気を与えてくれたという。
本書にはそんな作家としての等身大の喜びや苦悩が、正直に、真摯に綴られている。成功しているように見えていても、自信を持ちきれなかったり、コンプレックスを抱えていたり……そんな姿には共感する人も多いかもしれない。取材先での面白エピソードや失敗談、猫との暮らしなど、「普通」な感じに親近感を覚えてしまう。また本書の後半には2011年3月11日に起きた東日本大震災で大切な家族を失ったことが綴られており、深い悲しみと静かな祈りのこもった文章の数々に胸が熱くなる。
震災によって、柚月さんの中には「震災から時間が経った日常を送る自分/あの日から動けない自分」「震災の日で止まったままの時間/そこから流れている時間」が生まれたという。おそらくそれが本書のタイトルにもつながっていると思われるが、こうした感覚が生じてしまったことは、結果として作家としての柚月氏をさらに大きなものにしていくのだと思いたい。
なお印象的なカバーはロックバンドGLAYのTERUさんによる描き下ろしだ。ひっそりと静かに咲く芯の強さを感じるブルーの花々。しっかりと地面に根付くその姿には、表面的な華美さではなく、ひたむきな美しさがある。迷いながらも着実に「自分の居場所」をつくってきた柚月さんに、とても似合う。
文=荒井理恵