「想像で書いたのに、結果的に自分が似た境遇になってしまった」――新作小説『うるさいこの音の全部』で作家デビューの舞台裏を描いた思いとは? 芥川賞作家・高瀬隼子さんインタビュー

文芸・カルチャー

公開日:2023/10/20

うるさいこの音の全部
うるさいこの音の全部
高瀬隼子/文藝春秋)

 2022年『おいしいごはんが食べられますように』(講談社)で第167回芥川龍之介賞を受賞した小説家・高瀬隼子さん。2023年10月に新作小説『うるさいこの音の全部』(文藝春秋)が刊行されました。本作の主人公は兼業作家の朝陽。「早見有日」のペンネームで書いた小説が芥川賞を受賞し出版されたことで、彼女の日常が軋み始める――という「作家デビュー」をテーマにした物語です。自身と似た境遇の主人公を描いた高瀬さんの、本作に込めた思いをお聞きしました。

(取材・文=立花もも 写真=内海裕之)

高瀬隼子さん

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「こんなふうになったらいやだなあ」と思ったことを書いていた

――読み手のいろんな感情を掻き立てる小説ですね。小説家、それも芥川賞を受賞した女性が主人公ということで、どこまでが高瀬さんの現実とリンクしているのだろうと邪推する読者も多そうですが……。

高瀬隼子さん(以下、高瀬):そうなんですよね。『おいしいごはんが食べられますように』で芥川賞を受賞したとき、小説を書いていることが周囲にバレて、ちょっとざわつきはしましたけど、1年経ってようやく粛々と仕事ができる空気が戻ってきたのに、小説を書きながら職場の人に対してあれこれ思っている主人公を書いてしまったものだから、「これはもしかして……」なんて思われたらどうしようと。書いているときは〆切とか小説の出来とか他に気にすることがありすぎて、「人にどう思われる内容か」というところまで気がまわらないんです。だから今、困ってますし、ちょっと焦ってます(笑)。

――なぜ小説家を主人公にしようと思ったんですか?

高瀬:作中作、というものを書いてみたかったんです。カッコいいなあ、と思って。だったら主人公は小説家にするしかない、とそれだけを決めて書き始めました。でもいざ書き始めてみたら、当たり前ですけど、同時に二つの小説を考えなくてはいけないから大変でしたね。そのぶん、自然とページ数が増えていくのはありがたかったですけれど(笑)。いつも、中編のご依頼を受けるときは、そんなに書けるだろうかと不安なので。

――学生時代にアルバイトをしていたゲームセンターに就職した主人公の長井朝陽は、小説家としてデビューしたことを職場に報告します。できるだけプライベートは伏せておきたいのに、同僚はいろんな人に「この人作家だよ」と言いまわるし、広報として矢面に立つよう打診されるし、外野はどんどん騒がしくなっていく。

高瀬:この小説の第一稿を書いたのは私が芥川賞を受賞する前で、そのときは「こんなふうになったらいやだなあ」と思ったことを書いていたんですよね。望まない渦中に立たされて、長井朝陽さんは苦しそうだな、そりゃあこんなふうに毒づきもするよね、みたいに全部想像の世界で描いていた。ところが、芥川賞を受賞したあとの私は、期せずして、彼女と境遇が似てしまったんですよね。

――書いたものに、現実が追い付いてきてしまった。

高瀬:そうなんです。書いたときはすべて想像だったはずなのに、朝陽と似たような出来事をいくつか体験した今の私は、彼女に共感するところもとても多い。でもだからといって「私自身のことを書いた」わけではなく、結果的に似てしまったというのが実際のところなんです。

――小説家小説としてももちろんおもしろいのですが、二面性というほど明瞭ではない人の本音と建前、外面と内心みたいなものが、今作ではこれまで以上に浮かびあがっているような気がしました。それは朝陽が、人に嫌われたくない、期待に応えようとする“いい子”でもあるからだと思うのですが……。

高瀬:そういうものが私の中にテーマとしてあるんだな、というのが、最近ようやく自覚できるようになってきました。たぶんそれは、自分でも見て見ぬふりをしたい内心の、言語化すらしたくないような感情を、私自身が抱いて日々を過ごしているからだと思います。『いい子のあくび』(集英社)のときも、他人から“いい子”としてひとくくりにされてしまう人……事を荒立てないし、なんとなくその場をいい感じにおさめられる人を主人公に描いていて、朝陽もそのタイプだろうと思っていたんですが、友人から「朝陽の場合は、思っていることを誰にも言わずに、一人で愚痴っているだけじゃない?」というようなことを指摘されまして。それは確かに、と。

――「言えばいいのに」ってことも、全然言わないですよね。

高瀬:そうなんです。お母さんから「お父さんの入院もネタにするんでしょ」と言われたら「ひどい、そんなことしないよ!」って軽く言い返せばいいだけなのに、言わない。言わないで、確かに内心でぐちぐちしている。ということはつまり、私の描く“いい子”の正体は没コミュニケーションなんじゃないか、と気づきました。軽く言えば、相手も軽く受け止めてくれるかもしれないし、そこから対話することによってより良い方向に転がっていくかもしれないのに、朝陽は勝手に「どうせ」とか「みんなひどい」とか思って、最初から他者の可能性を想像することを諦めている。……と、考えていたら落ちこんじゃって。

――落ちこんだんですか。

高瀬:自分の気づいていない朝陽の一面があったことに、ちょっと。でもおかげで『明日、ここは静か』を書くことができました。

――『明日、ここは静か』は、本作に収録されている芥川賞を受賞したあとの朝陽を描いた短編ですね。

高瀬:『うるさいこの音の全部』で朝陽は自分の想像力の至らなさを自覚するし、もっと人の話に耳を傾けたほうがいいことも知る。でも、だからといって人はそんなに変わらないし、断固として彼女は没コミュニケーションの人間で在り続けるだろうな、という確信が、指摘を受けたことで持てたんですよね。

高瀬隼子さん

没コミュニケーションを選ぶリアル

――先ほど、中編とおっしゃいましたが、『明日、ここは静か』もあわせて今作は高瀬さんにとって初の長編小説じゃないかとも思うんですよ。そのなかで、朝陽がかたくなに成長しない……多少の変化は訪れたとしても根っこが変わらないというのは、ものすごくいいなと思いました。

高瀬:小説の書き方マニュアルみたいなものをよく読むんですけど、たいてい「主人公は成長したほうがいい」って書いてあるんですよね。私自身、ノートに「させたほうがいいらしい」とメモをするんですけど……成長、していないですよね(笑)。ただ、芥川賞受賞をきっかけに周りが一層うるさくなることで、より強く没コミュニケーションの方向に舵を切るリアルもあるんじゃないかなと思ったんです。思っていることは言えばいいし、対話もしたほうがいい。頭でそれはわかっているけど、現実でみんなそんなことしているだろうか? という疑問も湧いて。

――理想ではありますけど、どんなに仲良くても本音をぶつけあえないことのほうが現実ですよね。

高瀬:朝陽の友人である帆奈美や同僚のナミカワさんのように、できる人もいると思いますし、はっきり主張することのできる人たちがいてくれるおかげで、ちょっとずつ揉めながらも世の中はいい方向に転がっていくんだとも思います。でも、誰かの発言にあからさまに「うわあ」という顔をしても本人には指摘しない、という場面に立ち会うことのほうが圧倒的に多いんですよね。特に仕事の場では、私自身「もっとこうしたらいいのに」と思っても、言えば仕事が増えるし、今後の関係に支障が出てもいやだから黙っている、ということは多いですし、没コミュニケーションというのは大人の選択肢のひとつだなとも思います。だから朝陽には、自分が何を言いたいかではなく「このコミュニティでは何が正解とされているか」を考えて選択していく姿勢を貫いてもらおうと。

――言われてみれば、芥川賞を受賞した『おいしいごはんが食べられますように』も没コミュニケーションが正解であるという話でしたね。主人公の二谷は、本音を言い合える押尾さんではなく、いろんなことを黙ってやり過ごせる芦川さんのほうを交際相手に選びます。

高瀬:人権や倫理のよしあしではなくコミュニティでの正しさを優先させるコミュニケーション、というのもあると思うんです。作中作の主人公である女子大生も、人としての正しさではなく、女友達とのコミュニティの中で、何をしたらウケるか、受け入れてもらえるかの行動を選んでいく。そういう子たちはふざけているように見えて、意外と授業は真面目に出て、単位もちゃんととるだろうし、就活もそれなりにうまくいくんだろうな、と思います。

――でも、コミュニティの外の人に対しては、驚くくらい冷淡で、残酷なこともしてしまえる。作中作の主人公が、友達ウケのために近所の中華屋の息子と付き合い、旬が過ぎたと思ったら関係を断ち、ストーカー扱いして追い詰めていく姿は、なかなかぞっとするものがありました。悪気がないのがわかるからこそ、余計に。

高瀬:作中作は、軽薄で後味の良くない話にしようと最初から決めていたので(笑)。現実では“いい子”だからこそ、朝陽が書く小説は、周りの人に「あんなものを書いて……」と眉を顰められるようなものなんじゃないかなと思っていたんですよね。あくまで、長井朝陽が、小説家・早見夕日として書いているものなので、高瀬隼子の小説とは少し違うものにしようと思い、一人称の文体で改行やセリフはいつもより多めにしました。

高瀬隼子さん

――女子大生の中にある、無自覚な外国人差別も読んでいてひりひりしました。朝陽の母親も、ものすごく雑に中国の方を貶める言い方をしますけど、それを諫めることのできない彼女が、母親と似た感覚の主人公を通じてそのグロテスクさを浮き彫りにしていくところは見事だなと。

高瀬:ありがとうございます。その指摘もまた、コミュニティの正しさを優先していると、なかなかできないんですよね。外国人差別だけでなく、ジェンダーの問題にしても、三十歳を過ぎたころからようやく「それはちょっと」と言えるようになりましたけど、相手にはあんまり響いていないことも多い。今時だね、なんて笑って流されるのは意味わからないと思いつつ、それ以上責め立てるとやっぱり今後に支障が出るから、飲み込むことしかできなくて。

――だいたい、そういう無自覚な発言をするのは“いい人”ですしね。

高瀬:そうなんです。作中作の女子大生も、その友達も、会って話せば楽しいし、全体評価としては“いい人”。だから余計に何も言えなくなってしまう。本音をぶつけあう関係への憧れは強く抱いているのに、現実ではできない自分に対する劣等感も、この作品には滲み出ているのだと思います。だからこそ、没コミュニケーションを選択する朝陽のことも、あんまり責めたくない。一方で、差別発言など、私の嫌いな言葉たちがまかり通ってしまう世の中に対する違和感も見て見ぬふりをしては、今後小説を書くことはできないだろうなという予感もあります。

――ほかに今後、書きたいテーマはありますか?

高瀬:そうですね……“何者かになりたかった人”として扱われた朝陽が「そういうことじゃない」と思う場面がありますけど、「小説家になる」「小説家をしている」っていったいどういうことなんだろう、と改めて思ったんですよね。他の職業と同じ、仕事の区分のひとつであるはずなのに、なぜかそうは扱われない。芥川賞を受賞したあとに「一緒に働けるなんて光栄」みたいに言われたことが何度かあるんですが、十年事務職のプロとして働いてきた私の存在価値はいったいどこに? って思っちゃったんです。でも……その小説家という響きがもつ特別さみたいなものをテーマとして深めたいかといえば、どうなんだろう。ちょっと気になった、程度なので、もしかしたらぽろっとどこかに出てくるかもしれません(笑)。