俳諧は和歌、連歌に対するカウンターカルチャー!? 雅と俗、ふたつの文化の具体的な違いは?/江戸POP道中文字栗毛①
公開日:2023/10/29
『江戸POP道中文字栗毛』(児玉雨子/集英社)第1回【全6回】
作詞家で小説家の児玉雨子氏が、江戸文芸の世界を現代の視点で読み解いた話題作! 俳諧と現代ポピュラー音楽に通ずる意外な共通点や、江戸時代にも存在していた流行語、式亭三馬の滑稽本『諢話浮世風呂』からみる江戸時代の他者との距離感など、普段触れることのない破天荒な江戸文芸の世界が覗き見できます。『江戸POP道中文字栗毛』は、近世文芸に触れるきっかけになる一冊です。
天下一言語遊戯会
──徘諧史とポピュラー音楽の意外な共通点①
俳諧はカウンターカルチャー?!
数年前、とあるテレビ番組の収録で俳人の黛まどかさんとご一緒した時、そこでポップス作詞と俳諧──正確には「俳諧の連歌」の親和性が話題に上った。
俳諧は、和歌・連歌に対するカウンターカルチャーだ。和歌・連歌は主に宮廷や貴族による伝統文化で、よく「雅」の文化と呼ばれる。一方俳諧は武士や商人も参加する、階級を問わない新興文化で、「俗」のそれとして扱われる。この「雅」と「俗」の具体的な違いは、歌を詠むときの言葉やモチーフにあらわれる。
たとえば和歌で使われる数字は基本的に「ひ、ふ、み」と訓読みだが、俳諧では「いち、に、さん」と音読みしてもよい。それまでは原則大和言葉で編まれてきた歌世界(*1)に、漢語(当時の中国語)という外国語を入れて異化効果を生む俳諧的方法は、英語、和製英語、日本語が交ざるJ-POPにも近いところがある。
ほかにも、和歌では無教養な印象があるとして好まれない「畳語」というものも俳諧では受け入れられている。この「畳語」とは、「ばらばら」のようなオノマトペや繰り返し言葉のことだ。単純に繰り返すことで記憶に残りやすいし、音楽的な心地よさもある。
インテリの貞徳、爆笑の宗因、「文芸的」な芭蕉
では、そういった「俗」な言葉で詠まれる歌世界はどんなものだろう。これは俳諧の文学史的な流れも一緒に説明するほうがわかりやすいと思う。和歌でよく登場する「雁かり」という鳥に対して、松永貞徳(1571~1653)という俳諧師はこんな句を詠んだ。
花よりも団子やありて帰雁(かえるかり)(「犬子集」)
(現代語訳:せっかく花の季節なのに、それもたのしまず帰って行く雁たちの故郷には団子でもあるのだろうか)
伝統的な和歌の世界では、雁は花の風流がわからずさっと故郷に帰っていってしまう鳥とされている。そこに「花より団子」という「俗」な言葉を持ってきたのがこの句のおもしろさで、俳諧性があらわれている。
俳諧という文芸ジャンルは、俳諧の連歌のもとになった無心連歌として鎌倉時代からあったのだが、この松永貞徳は江戸時代の俳諧大流行の土壌を作ったと言っても過言ではない。和歌の知識を踏まえた句が多いのでややインテリ風味だが、貞徳の元に弟子が集まり、このような作風は「貞門俳諧(ていもんはいかい)」と呼ばれるようになった。
貞門はインテリをニヤリとさせるものが多いのだが、彼に次いで更に軽い調子の、爆笑を狙った句の名手が登場する。西山宗因(一六〇五−一六八二)だ。彼にも弟子が集まり「談林俳諧(だんりんはいかい)」の開祖となった。
ながむとて花にもいたし頸(くび)の骨(「牛飼」等)
(現代語訳:こうして桜を眺めていると、ずいぶんと首の骨が痛くなってくるなぁ)
この句は平安~鎌倉時代に活躍した歌人・西行の「ながむとて花にもいたく馴れぬれば散る別れこそかなしかりけれ」のパロディで、元ネタの「ずいぶんと」を意味する「いたく」と「痛く」をかけたダジャレだ。はじめは和歌をなぞって雅やかに桜を見上げていたが、最後に「首が痛いな~」と庶民的な滑稽で終わらせている。この宗因の軽口で、談林俳諧はそれまで連歌に興味のなかった層にも波及した。
しかし現代の近世文学研究では「今日の我々の目から見れば文芸とはいいがたい」(*2)や「今日からすれば文芸的に未熟な」(*3)などと評される。一方芭蕉が一般的に貞徳や宗因よりも知名度が高いのは、「今日」の「文芸」的とみなされたからだろうか?
そもそもここで言う「文芸」とはなんだろう。
【注釈】
(*1)十三世紀にはすでに、雅な和歌的情緒のある連歌を「有心連歌」、言語遊戯に興じた俗なそれを「無心連歌」と分けていたそうだ。「俗」な俳諧の連歌は貞門俳諧でいきなり成立したのではなく、中世から存在していた。
(*2)田中善信「談林俳諧における寓言論の発生について」(『国文学研究』49、P.65-73、早稲田大学国文学会、一九七三)
(*3)中村幸彦(『中村幸彦著述集』第九巻 P.168) ただし中村は同書で「談林俳諧は(中略)滑稽の文学である。滑稽文学は、明治以後現代まで軽視する傾向が続いている。(中略)柳田国男翁のいわゆる不幸なる芸術にさせたくないものである」と続けているように、談林派軽視の論壇に対し懐疑的であった。
<第2回に続く>