胃に2つ穴があいた筒井康隆が「死」について考えた本。用語辞書が必要なくらい難解な「ハイデガーの哲学」をわかりやすく解説
更新日:2023/12/12
『時をかける少女』『七瀬ふたたび』『日本以外全部沈没』……。数々の傑作で知られる文学界の巨匠・筒井康隆が大きく影響を受けた哲学書をご存じだろうか。それは、ハイデガーの『存在と時間』。近年の筒井作品は「ハイデガー的」であると言われ、「わが最後の作品集となるだろう」との宣言のもとで上梓され、今、大きな話題を呼んでいる掌編小説集『カーテンコール』(新潮社)でもその影響が垣間見られる。“最後の作品集”の刊行で、筒井作品に注目が集まる今は、その哲学を学ぶのにいい機会なのかもしれない。だが、その内容に興味があれど、「難しそうでとても手が出ない」と感じている人も少なくはないだろう。
しかし、「小難しそう」だなんて心配はいらない。なぜなら、ハイデガーにハマり込んだ筒井康隆は、その哲学を分かりやすく説き明かした解説書を執筆しているからだ。その名も、『誰にもわかるハイデガー:文学部唯野教授・最終講義』(河出書房新社)。ページをめくれば、「こんなにも分かりやすい哲学の解説書があるのか」と驚かされるに違いない。この本は「哲学は難解」というイメージを、いとも簡単に覆してくれる。ハイデガーの哲学を初めて学ぶ者にとって、最も手にとりやすい1冊と言っても過言ではないだろう。
そもそも筒井康隆がハイデガーを初めて読んだのは、1988年のこと。『文学部唯野教授』と『残像に口紅を』の連載によって、胃に2つ穴があき、1カ月入院した時のことだという。入院生活では「死」が身近にあった。そこで「何とか死という現象について知りたい」と考えた時に手にとったのが、ハイデガーの『存在と時間』だったのだそうだ。それから、1カ月かけてどうにか読み終えることはできたが、筒井は「これはあまりにも難しすぎる」と感じたのだという。「もっと易しい言葉で、いくらでもわかりやすくできるんじゃないか」。そんな思いで行なった講演「誰にもわかるハイデガー」をもととして生まれたのがこの本だ。
ハイデガーが提唱したのは、一言でいえば、“メメント・モリ”、「死を想え」という哲学だ。人間(=現存在)は、死ぬ運命にある。だが、死があるからこそ、生の意味を認識できる。筒井がハイデガーと向き合った行動も、実はハイデガーの哲学に沿って解説できるという。筒井は入院生活によって、死ぬことなしに死のほうへ自分が投げ込まれてしまうように感じた。ハイデガーに言わせれば、これは、“投げ込まれることを被る”「被投」という事象。これは死に限らず、何かものを理解しようとする時に起こることなのだという。そして、何だか訳が分からない時、人間はそれを理解しようとする。たとえば、ハイデガーを読み始め、どうにか「死」を理解しようとする。この試みをハイデガーは「企投」と呼ぶ。自ら企ててその世界に投げ入り、了解していく。それは、絶え間なしに自分の可能性と向き合い続けることだ。
本来、ハイデガーを読み解くには、ハイデガー用語の辞書がもう1冊必要となるらしい。だが、筒井はそんな哲学を、軽妙洒脱に、平易な言葉で語っていく。ハイデガーの師匠にあたるフッサールの現象学や、実存主義を唱えたサルトルなど、ハイデガーの哲学が生まれた背景の解説もあるから理解が進むし、何よりも、それがユーモアあふれる語り口で解説されているから、スッと頭に入ってくる。ハイデガーは、こういうおしゃべり(=空談)を、私たちを死への不安から遠ざける「頽落」、つまりは、堕落だと捉えているらしいが、そんなことは関係ない。むしろ、「空談」で語られたからこそ、面白おかしく語られるからこそ、この解説書には意味があるだろう。
歳を重ねるごとに「死ぬ」ということや「生きる」ということについて考える機会は増えるものだ。特に、身近な人間が死んだ時には否が応でも考えずにはいられない。かくいう私も、数年前に60代の父を突然死で亡くした時から、ふとした時に「死とは何か」「生きるとは何か」とモヤモヤと考えるようになってしまった。未だに「これから先の人生、失うだけの時間なのだろうか」と絶望的な気分になる日もある。だが、そういう時にこそ、この哲学書が間違いなく効く。人間にとって「死」というものは、到底理屈では片付けられない問題だが、先人がどういう哲学を提唱してきたのか、偉大な小説家はそれをどう解釈しているのかを知ることは、「死」に怯え、「死とは何か」に悩む人間にとって、「なるほどな」という発見がある。
そして、何よりも筒井康隆ファンとしては、この本でハイデガーを学んだ後、筒井作品を改めて読み返すのが益々楽しくなった。読み返してみると、筒井がハイデガーからどれほど影響を受けたのか、改めて感じ取ることができるのだ。筒井康隆の作品をより楽しむためにも、筒井康隆という小説家を知るためにも、この本は必読。“最後の作品集”『カーテンコール』が話題を呼んでいる今、是非とも読んでほしい1冊だ。
文=アサトーミナミ