商家の主人が斬られた。弐吉ら目撃者たちは南町奉行所定町廻り同心・城野原に状況を訊かれ…/成り上がり弐吉札差帖②
更新日:2024/2/13
『成り上がり弐吉札差帖』(千野隆司/KADOKAWA)第2回【全3回】
江戸の裏長屋暮らしだった少年・弐吉は、直参の侍が働いた狼藉により両親を亡くす。以来弐吉は、家族を奪った武家への強い恨みを胸に持ちながら、札差・笠倉屋で小僧奉公している。札差の仕事をしてみると、傲慢で威張ってばかりいるようにしか見えなかった直参御家人のお金事情や、それぞれの家の問題点が見えてきた。「これは、おもしろい」と思った弐吉は、この稼業に一生をかけようと決意。その矢先、笠倉屋からの貸金がある札旦那が、辻斬りの嫌疑をかけられて御家断絶の危機に! そうなると札差としては、貸金が回収できなくなる。この件の「冤罪を晴らせ」と、主人から命じられた弐吉は札旦那の身辺を探り始める…。『成り上がり弐吉札差帖』は、知恵と根性を武器に、札差の世界でのし上がっていく若者の出世奮闘記です。
二
八丁堀の自分の屋敷にいた南町奉行所定町廻り同心城野原市之助は、手先の冬太を相手に酒を飲んでいた。城野原は四十一歳で、町方同心として若い頃のような正義感はすでにない。
町の者の厄介な悶着に関わらされて、辟易とした思いで一日を過ごした。十八歳になる手先の冬太は、ぐれていたのを拾ってきて手先にした。孤児で、世間にある悪さは一通りしてきた。狡賢いやつだが、城野原の言うことはよく聞く。すばしこいやつで役に立った。
そこへ蔵前通り浅草天王町の自身番から商家の主人が斬られたと知らされた。すでに息はないとか。
「ちっ」
舌打ちが出た。せっかく気持ちよく酔い始めたところだった。蔵前と浅草寺門前界隈の町は受け持ち区域だから、知らぬふりはできない。
しかたなく城野原は、冬太を伴って現場へ赴いた。
現場には土地の岡っ引きと町役人が顔を見せていて、酔った野次馬も数名集まっていた。篝火が焚かれて、死体には藁筵がかけられていた。
早速、死体を検めた。
「これは」
斬られたのは、吾平という浅草三好町の魚油屋の主人である。見回り区域内の、表通りの住人だから顔見知りだった。
集金の後で酒を飲んだ帰宅途中にばっさりやられた。懐の財布は奪われていた。
「見事な斬り傷だな」
一刀のもとにやられていた。他に傷はない。殺った者は、見事な腕前の持ち主だと察せられた。
来ていた女房は気持ちが昂っていたが、落ち着かせて話を聞いた。直参に金が入って、各所を廻って掛売の代金を受け取った後のことだという。
「奪われたのは、どれほどの額になるのか」
「十一両以上のはずです」
「なかなかの額だな」
「酒なんて飲まないで、帰ってくればいいものを」
と女房は嘆いた。犯行の目撃者はこの段階で四人いた。まずは、瓦町の小料理屋から出て来た客と、これと一緒にいた店のおかみだった。
早速、状況を訊いた。
「やったのは侍で、目にしたのは懐から財布を抜いたところでした」
小料理屋の女房が口にした。帰る客を、見送りに出たところだった。地に落ちた提灯が燃えて、その場面が見えた。
「それで侍は、すぐに逃げました」
姿は、浪人者のものではなかった。顔は分からない。
「侍は一人か」
「そうだと思います」
「刀は、抜いたままだったのか」
「さあ」
暗かったし驚きもあったから、そこははっきりしない。見えたのは、斬られた町人が持っていたとおぼしい提灯が燃える間だけだったそうな。
「侍による物盗りか」
「直参ではなさそうですね」
城野原の言葉に冬太が返した。直参は、懐があたたかい。そのような真似はしないだろうという読みだ。
悪党もそのあたりの事情を知っていたのかもしれない。だからこそ直参の給与である切米の支給日に集金をした商人から、盗みをしたのではないかとも考えられる。
「決めつけるわけにはいかねえぞ」
と城野原は返した。札差から多額の金を借りていたら、返済分を引かれるので手元に入る額が予想以上に少ない場合がある。それでも返しきれない借金があったら、悪巧みをするかもしれない。
「直参を廻って集金をした商人は、金を持っている。直参ならば気がつくことだからな、襲うことがないとは言い切れねえ」
送られた小料理屋の客も、同じような返答だった。
そして三人目は、悲鳴を聞いて目をやった荷運び人足である。近くの屋台店で酒を飲んでいた。今日は懐があたたかくて、いっぱいやったのである。
「侍は、あっちへ逃げていきました」
指差した先は、鳥越橋は渡らず、猿屋町方向へ逃げたことになる。目にしたのは、財布を抜く場面からだ。闇に紛れ込んで行く侍の姿は、一人だけだったとか。
それからもう一人目撃した者がいた。札差笠倉屋の小僧で弐吉という者だ。この者も、岡っ引きは傍においていた。
「お侍は二人いて、一人が斬ってすぐに逃げました。それからもう一人が倒れた町人の体に触れて、後から追いかけました」
逃げた方向は、他の者が言ったのと同じ方向だったが、犯行をなした人数が違った。
「見間違いではないか」
「いえ。離れていたのですが、提灯の明かりがありました」
物言いはしっかりしていた。おどおどした様子はない。証言に自信があるらしかった。
「ううむ」
一人と二人では、状況が変わる。首を傾げた。
それから土地の岡っ引きや冬太に、周辺の聞き込みに行かせた。城野原は同じ蔵前通りの茅町の居酒屋へ行った。
まだ明かりを灯していた。蒸し暑いので戸は開いたままだった。中で飲んでいた侍も、事件のことは知っていた。
一刻近く前に、不審な動きをする侍はいなかったか尋ねた。
「そういえば、御米蔵方面へ向かう者を見かけたぞ」
酔った商人をつけてゆく感じだったとか。暮れ六つの鐘が鳴って間のない頃だと言うから、犯行のあった刻限とかさなる。侍に見覚えがないかと訊いた。
「さあ、しかとは分からぬ」
歯切れがよくなかった。
知り合いかもしれないと気づいた。
「これは殺しでござる。しかも金子を奪っていた」
大きな事件だとして、強く迫った。
「塚本伝三郎という者だ」
同じ札差大口屋の札旦那同士だから、顔も名も覚えていると言った。これは容疑者の一人になりそうだ。
次に蔵前通りの瓦町の木戸番小屋へ行き、番人に問いかけた。
「慌てた様子のお侍の姿は、見ませんでしたね」
そのときは、番小屋から外に目をやっていた。
「では侍は、通らなかったのか」
「いえ、ありましたね」
大身旗本とその用人といった気配の二人連れを見たとか。どちらも頭巾を被っていたらしい。
「この日は、夕暮れ時になっても、それなりにお侍の姿はありました」
「切米の日だからな」
「さようで。でもあのお二人は、直参でも蔵米取りとは思えませんでした」
御大身に見えたという話だ。違和感があったのだろう。
「初めて見かけたのか」
「いえ、二、三日前にも見かけたような」
もちろん、名などは分からない。用がある歩き方には感じなかった。
そして岡っ引きや冬太が戻って来た。
「猿屋町で走り去る侍を見た者がいたそうです」
岡っ引きが言った。侍は一人で、暗くて主持ちかどうか分からなかった。浪人かもしれないと付け足した。
冬太は鳥越橋の先、北側の通りで聞き込みをしたとか。
「主持ちの侍を見かけた者がいました」
荒物屋の隠居で、知人の家で碁をしていて暮れ六つを過ぎてしまったのだとか。斬った者かどうかは分からない。
「二人連れの侍を見た者は、いなかったのだな」
この問いかけには、岡っ引きも冬太も頷いた。
「ならばもともと、一人の犯行だったのか」
城野原は呟いた。二人の犯行ならば、夜の闇の中で別々に逃げたとも考えられる。冬太が続けた。
「向こうから来たお侍と、ぶつかりそうになったと告げる者がいました」
蔵前通りの、糸屋の主人だ。
「いつのことだ」
「殺しがあった刻限の少し前頃のようです」
「どんな様子だったのか」
「侍は考え事をしているように見えたとか」
「見覚えのない者だったのだな」
「いえ。どこの誰かは分からないが、札差笠倉屋の前にいるのを見たことがあるとのことでした」
提灯の明かりがあって、すれ違うときに顔が見えた。すぐ近くだった。侍はその後、犯行現場の方へ歩いて行った。
「侍の顔を見たわけだな」
「顔というよりも、顎に一寸ほどの刃物傷があったということです」
「そうか」
手間はかかりそうだが、手掛かりは他にはない。まずはここから当たることにした。
<第3回に続く>【著者プロフィール】
千野隆司(ちの たかし)
1951年、東京生まれ。國學院大学文学部卒業。90年「夜の道行」で第12回小説推理新人賞を受賞し、選考委員から「第二の藤沢周平」と賞賛される。以後、時代小説を中心に活躍中。「入り婿侍商い帖」シリーズは、評論家の縄田一男氏から「著者の新たな頂点」と絶賛を受けた代表作。2018年「おれは一万石」「長谷川平蔵人足寄場」シリーズで第7回歴史時代作家クラブ賞シリーズ賞を受賞。その他の著書に「新・入り婿侍商い帖」「朝比奈凜之助捕物暦」シリーズ、『髪結おれん 恋情びんだらい』『鉞ばばあと孫娘貸金始末』等がある。