店の者に帰りが遅いと怒鳴られた弐吉。意地悪された弐吉は、不満を一気に口に出してしまう/成り上がり弐吉札差帖③
更新日:2024/2/13
『成り上がり弐吉札差帖』(千野隆司/KADOKAWA)第3回【全3回】
江戸の裏長屋暮らしだった少年・弐吉は、直参の侍が働いた狼藉により両親を亡くす。以来弐吉は、家族を奪った武家への強い恨みを胸に持ちながら、札差・笠蔵屋で小僧奉公している。札差の仕事してみると、傲慢で威張ってばかりいるようにしか見えなかった直参御家人のお金事情や、それぞれの家の問題点が見えてきた。「これは、おもしろい」と思えた弐吉は、この稼業に一生をかけようと決意。その矢先、笠倉屋からの貸金がある札旦那が、辻斬りの嫌疑をかけられて御家断絶の危機に! そうなると札差としては、貸金が回収できなくなる。この件の「冤罪を晴らせ」と、主人から命じられた弐吉は札旦那の身辺を探り始める…。『成り上がり弐吉札差帖』は、知恵と人情を武器に、札差の世界でのし上がっていく若者の出世奮闘記です。
第一章 消えた侍
一
表通りの笠倉屋の戸はすべて閉じられていたので、弐吉は裏から建物に入った。魚油屋吾平殺しの調べのために引き止められ、すっかり遅くなってしまった。腹も減っていた。
土間へ入ると猪作がいた。
「今まで何をしていやがった」
と怒鳴られた。
「下谷龍泉寺町の村田様へ、米を届けに行きました」
むっとした気持ちになって答えた。そもそも違う村田家を指図したのは、猪作の方だった。
「こんなに遅くなるわけがない、どこかで油を売っていたんだろう」
周囲に聞こえるような大きな声だった。
「猪作さんに、本郷御弓町の村田様へ運ぶようにと言われました。それで行ったら、うちではないと言われました」
不満が、一気に口から出た。そのまま続けた。
「それで下谷龍泉寺町の村田家へ行きました」
噓ではないので、そう返した。自分への意地悪なのは分かっている。
「何だと、この野郎」
いきなり握った拳で、頰を殴られた。避ける間もない。さらに膝で腹を蹴られて、土間に転がった。
「自分の聞き間違いを、人のせいにしようというのか」
言い返したことに、腹を立てていた。猪作は間違いなく「本郷御弓町の村田家」と言ったが、とぼけるつもりらしかった。
「卑怯者めっ」
睨みつけられて、弐吉は睨み返した。殴り返したいが、それはできない。そこで言い返そうとしたが、貞太郎が現れた。
そういえばあのとき、貞太郎は近くにいた。耳にしたことを、言ってもらえると考えた。
「私は傍にいて聞いていた。猪作は、下谷龍泉寺町の村田家へ行けと告げていた」
体を流れる血が、一気に冷たくなったのを感じた。すぐには声も出ない。かっとしていた気持ちが冷めた。
「こいつらは組んでいる」
と悟った。若旦那が相手ならば、勝負にならない。出そうとした言葉を吞み込んだ。ただ睨み返すのはやめなかった。
「ふざけやがって」
もう一つ殴られたが、それでも睨み返すのはやめなかった。もう痛みは感じない。さらに殴られようとしたところで他の声がかかった。
「そこまでにしろ」
告げたのは、清蔵だった。
「顔が腫れては、店の仕事をさせられない」
そう続けた。
「へえ」
猪作は、満足そうに引き下がった。言い間違いについての確認も、殴りつけたことについての注意もなかった。これで弐吉の聞き間違いだと決まったことになる。猪作は貞太郎と、店の方へ行った。
清蔵が猪作の暴行を止めたのは、弐吉のためではない。店のためであり、厄介ごとを早々に終わらせたかっただけだと察した。
「自分に仲間はいない」
弐吉は無念の気持ちを吞み込んだ。それで怒りが治まったわけではないが、他に行く場所はなかった。
ここで耐えるしかないと、自分の気持ちを抑えた。浅蜊の振り売りをしていた父親は、八歳の時に亡くなった。母親は、通いの女中をしながら育ててくれたが、二年の後に失った。親戚などはない。天涯孤独の身の上になって、町役人の口利きで笠倉屋に奉公をした。
ここを出ても、行くところはなかった。
「あのう」
行ってしまおうとする清蔵に、弐吉は声をかけた。猪作について訴えようと思ったのではない。何を言っても、聞かないだろう。
天王町で魚油屋の主人吾平が惨殺され、金品を奪われた一部始終を、偶然自分が目撃したことを伝えた。大事件だから、伝えておかなくてはいけないという判断だ。城野原に証言をしたことも付け加えた。
「なるほど、襲ったのは二人連れの侍か」
清蔵は真剣に聞いた。
「それもあって、なおさら遅くなったのだな」
清蔵の眼差しが、前よりも緩んだのが分かった。
「へえ」
「なぜそれを告げなかった」
「言う暇がありませんでした」
顔を見るなり責められた。その後も、話すどころではなかった。
「そうか」
このとき、弐吉の腹の虫が鳴った。空腹を思い出した。少し慌てた。?られるかと思ったが、それはなかった。
「さっさと食事を済ませてこい」
そう言ってくれたのでほっとした。頭を下げると、すぐに台所へ行った。手代と小僧は、台所で食事をする。
壁に棚がしつらえられていて、そこに各自の箱膳が収められていた。
自分の箱膳を取り出して蓋を開ける。中には飯と汁の椀、それに箸と香の物が入った小皿が入っている。香の物は、お文や台所の女中が入れてくれる。
「おやっ」
切米の日には、小僧にも目刺が一尾ついた。慰労の意味でつくもので、弐吉もいつも秘かに楽しみにしていたのだが、今晩は入っていなかった。皿だけあった。焦げた尻尾と鰭の滓が、わずかに残っている。
お櫃を覗くと、米粒が横や隅にこびり付いているだけだった。汁も残っていなかった。
「そうか」
すべて、他の奉公人たちに食べられてしまったということだ。通常ならば、帰りの遅い者の分は残しておくが、それはなかった。箱膳の中の目刺にも手を付けられていた。
「くそっ」
悔しい思いで、残っていた沢庵二切れを口に含んだ。
「猪作がけしかけたのに違いない」
と思ったが、責めても仕方がないと感じた。誰に聞いても、「知らない」と言うだけだろう。
「すきっ腹で寝るしかないのか」
そう呟くと、空腹は耐え難いものになった。ぺたりと尻を板の間について呆然とした。すきっ腹も辛いが、それ以上に一人も味方がいないという事実が胸に染みた。
涙が込み上げそうになったが、ぐっと堪えた。泣いたら、自分を支えきれない。誰も見ていないところでも、駄目だと自分に言い聞かせてきた。
そのとき、抑えた足音が聞こえた。
はっとして目をやると、お文だった。白い握り飯二つと沢庵が載った皿を差し出した。
「お食べなさいな」
それだけ言うと、立ち去った。それ以上の言葉はない。
仰天して、すぐには言葉が出なかった。お文は一年半くらい前に江戸へ出てきて、笠倉屋で住み込みの仲働きの女中になった。清蔵の遠縁だとは聞いていたが、これまでまともに口を利いたことはなかった。弐吉よりも一つ歳上で、朝会ったときに挨拶をするくらいだ。
用件ははっきりと口にするが、誰かとおしゃべりをする姿や笑っているところを目にしたことはない。特別な気遣いを、決まった者にすることもなかった。
弐吉の目刺や飯などを、猪作らが食べてしまうのを見ていたのかと思った。
「ありがとうございます」
背中に向けて言った。
食べ終わった頃に、城野原と冬太が笠倉屋を訪ねて来た。金左衛門が対応した。清蔵は通いだから、すでに住まいに帰っていた。
城野原の声は大きかったので、すぐに分かった。今夜の事件についての問いかけだと分かったから、弐吉は土間の隅で聞き耳を立てた。あの後どうなったか、気になるところだった。
城野原は、顎に一寸ほどの刃物傷のある者について問いかけてきた。
「札旦那の中にいないか」
金左衛門は、丑松を呼んだ。個々の札旦那についてならば、丑松の方がよく分かる。
「それならば」
丑松は、すぐに答えた。弐吉も思い出した。
「梶谷五郎兵衛様ですが」
「どのような御仁かね」
「お歳は四十一歳で、家禄は百四十俵で御屋敷は本所南割下水の近くです」
丑松は、分かっていることを話した。
「借金は」
城野原は、吾平殺しの下手人として疑っているらしかった。
「だいぶあります」
丑松は、緊張した面持ちになって答えた。疑う理由が分かるからだろう。
札旦那の借金については外に漏らさないのが常だが、今回は人殺しだった。五年以上先の禄米まで担保にして、貸金の総額は七十二両になると伝えた。
「何かのお役目に就いているのか」
「いえ、無役かと」
「では禄米の他に、実入りはないわけだな」
「おそらく」
「では返済も滞っているのではないか」
「ええ。今以上は、ご用立てできないところです」
「そうか」
驚いた様子だった。話したことは口外するなと告げて、城野原は引き上げていった。
【著者プロフィール】
千野隆司(ちの たかし)
1951年、東京生まれ。國學院大学文学部卒業。90年「夜の道行」で第12回小説推理新人賞を受賞し、選考委員から「第二の藤沢周平」と賞賛される。以後、時代小説を中心に活躍中。「入り婿侍商い帖」シリーズは、評論家の縄田一男氏から「著者の新たな頂点」と絶賛を受けた代表作。2018年「おれは一万石」「長谷川平蔵人足寄場」シリーズで第7回歴史時代作家クラブ賞シリーズ賞を受賞。その他の著書に「新・入り婿侍商い帖」「朝比奈凜之助捕物暦」シリーズ、『髪結おれん 恋情びんだらい』『鉞ばばあと孫娘貸金始末』等がある。