二転三転の「遺伝」ミステリー小説。親から負のDNAを受け継いだ子にどう立ち向かえばいいのかを問われる1冊
更新日:2023/12/12
成長するにつれて親から受け継いだDNAを強烈に意識せずにはいられない。長男はよく母親に似るというが、まさにその通りで、外見から性格まで多くを受け継いだと痛感してしまう。これは本人には望むと望まざるとにかかわらず訪れる、宿命のようなものだ。もちろん人間の形質は、遺伝的要因に加えて環境要因にも影響されるとは言え、たとえば音楽の才能は、環境よりも遺伝に依存する確率が高いらしい。この場合は、もちろんプラスの遺伝である。しかし反対に、世間的にマイナスとされるDNAを不運にも受け継いでしまった人は、それを宿命として受け入れるしかないのだろうか。
そんな遺伝のマイナスの部分に焦点を当てたミステリー小説『黒い糸』(染井為人/KADOKAWA)が発売された。著者の染井為人氏は、2017年に「悪い夏」で第37回横溝正史ミステリ大賞優秀賞を受賞してデビューした小説家である。表紙に描かれたタイトル『黒い糸』にも工夫がこしらえられている。「黒」の下部、れっかの部分が、一筆書きのように薄く繋がっており、「い糸」も糸のようなもので繋がっている。これは、遺伝子・DNAが親から子へと脈々と受け継がれていく様子をうまく表現したものだと推察される。
本書は、DNAに翻弄され、悪意に巻き込まれた人々がうまく描かれており、油断していると読者自身でさえ、その渦の中に引きずり込まれてしまうところが良い。
千葉県の結婚相談所でアドバイザーとして働くシングルマザーの平山亜紀と、亜紀の息子が通う小学校の担任・長谷川祐介の2つの視点で描かれながら物語は進行していく。ここで描かれるのは、誘拐事件を皮切りに小学校の一つのクラスだけを次々と見舞う不可解な事件だ。第一の誘拐犯が捕まっていないという不穏な空気の中、平山亜紀と元夫の間に生まれた息子との遺伝的なしがらみや、大学院で臨床心理学を研究している長谷川祐介の兄が語る遺伝に関する話によって、このミステリーに「遺伝」が大きな意味を持っていることが示唆される。
本書のポイントは、大きく2点だ。ひとつは「遺伝」がどのように事件に絡んでくるのかという点。もう1点は、事件について語る登場人物の多さだ。彼らの推理に少しでも心を許すと容易にミスリードされてしまうことがあるので要注意だ。
「遺伝」については言わずもがな、親から子に遺伝される性格が推理のヒントにもなるのだが、反対に、血の繋がっていない実の親子ではないことによる「遺伝されなさ」についても注目したい。亜紀の息子のある同級生の頭の切れる女子は、養子縁組によって親子関係を築いているのだが、彼女が養子縁組によって迎えられた理由に「宗教」が絡んでいるなど、闇は深い。血が繋がっていない=性格が異なる、というのはあまりに安易だが、それが推理の一助になることもまた事実だ。そうした「遺伝」を軸に作り込まれた世界を楽しんでほしい。
事件について語る登場人物の多さについても異色なのではないかと思う。筆者自身はそこまでミステリーをたくさん読んできた人間ではないが、ここまで登場人物の多くが、誘拐などの事件によって生じた不穏な状況に対して、ただ怯えるのではなく、推理しようとする態度に魅力を感じる。状況を打破し、強く生き抜こうとする姿が美しい。
二転三転のどんでん返しの末に訪れる結末に、思わず恐怖の声をあげてしまうだろう。そしてこう考えさせられる。遺伝的に負の宿命を背負った人々が起こしてしまう犯罪に、我々はどのように立ち向かえば良いのか、と。今、ごく普通に大きな支障もなく生きられていることが、もしかしたら幸福だと思えるかもしれない。そんな1冊だった。
文=奥井雄義