刀鍛冶の後継者として育てられた美禰。鍛冶場に入るため、男を装い鋒国という名を与えられる/わたしのお殿さま①
公開日:2023/11/24
『わたしのお殿さま』(鷹井伶/KADOKAWA)第1回【全5回】
紀伊の霊峰を仰ぐ地で、刀鍛冶の家系に生まれた美禰。後継者となるべく鋒国(みねくに)という名を与えられ男を装うよう育てられた。仲がいい、無口な祖父・月国と、おしゃべりな大叔母・おつかのもとで、自分の境遇に不満を持たずに暮らしていた美禰。しかし、流刑になった松平忠輝との出会いが美禰の運命を大きく動かす――。『わたしのお殿さま』は、流罪となった若き殿さまと刀鍛冶の娘の運命の恋を描いた長編時代小説です。
序
静かな夜だった。
見上げれば、まるで砂金を流したように天の川が煌めいている。
清廉な星の光を受けながら、神事を見守っていると、突然、背後から大地を引き裂くような激しい咆哮がした。と同時に、村人の一人が横殴りにされ、吹っ飛んだ。
邪悪な唸り声を上げながら、真っ黒な体毛の獣が立ち上がる。六尺(約一八〇センチ)はあろうかというほどの巨大な熊だ。
一瞬の間の後、どこかで女の悲鳴が上がり、それを合図に恐怖に駆られた人たちが我先にと逃げ始めた。泣き叫ぶ子を抱えて走る親、「逃げろ」と叫ぶ声も聞こえてくる。
逃げなければ……。
わかっていても、足は竦み、動かない。
それでも、無理やり後ずさりすると、足がもつれそのまま尻餅をついてしまった。
熊は容赦なく近づいてくる。
獰猛な顔が目の前に迫った。尖った爪、大きな口、牙、赤い舌……。
駄目かと観念して、目を閉じた刹那、身体がふわっと浮いた。
何が起きているのか。
目を開けると、見知らぬ男の逞しい腕に横抱きにされ、そのまま宙を飛んでいた。
男は人とは思えないほど軽々と跳躍していき、熊が登ってこられない高さの岩の上まで飛び上がると、そっと降ろしてくれた。
「……大事ないか」
深く柔らかな声だ。
小さく頷き、初めて声の主を見た。
すっきりとした首、顎、くっと上がった口角、すっと通った鼻筋、夜空に瞬く星のように美しく澄んだ瞳……。
それがわたしのお殿さまだった。