『テスカトリポカ』で直木賞と山本周五郎賞をW受賞した著者が描く戦闘機の世界。飛行中に〈透明で巨大な蛇〉に首を嚙みちぎられた男の顛末

文芸・カルチャー

更新日:2023/12/12

幽玄F
幽玄F』(佐藤究/河出書房新社)

 芥川賞と山本周五郎賞をダブル受賞し、あまたの読者を夢中にさせた『テスカトリポカ』から約2年半。佐藤究氏は果たして同書を凌ぐ作品を書き得るのだろうか。氏の新刊『幽玄F』(河出書房新社)にはそんな期待と不安を抱いていた。だが、構想に5年を費やしたという本書は、筆者の予想を遥かに超える規格外で弩級の傑作であった。

 主人公の易永透は、幼い頃に飛行機に魅せられ、パイロットとなることを早くから決意する。そのために、視力の衰えを恐れて漫画などは読まず、体育の中でも怪我をする可能性のある授業には出ない。日々筋トレに励み、語学や飛行機の構造などを習得する。いわば、パイロット養成ギブスを24時間身に着けているようなものだろう。果たして、透は25歳で航空宇宙自衛隊員の戦闘機パイロットに採用された。彼のあまりの才能と実力に、「あいつは敵国のスパイなんじゃないか?」との噂が立つほどだった。

 そんな透にも葛藤はあった。彼は、国を護っているはずの自分たちが、国民から〈邪魔者扱いされる〉ことに疑問を感じる。日本のスポーツ選手が海外で活躍すると英雄視されるが、自衛隊がそのような評価を受けることはない。だが、航空宇宙自衛隊が活躍するのは有事の際のことであり、当然、起こらないに越したことはない。透は先輩にそうたしなめられる。

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 パイロットとしての道のりは順風満帆に見えた透だが、飛行訓練のさなかに突然の発作に襲わる。F-35Bを操縦中に不意に現れた〈透明で巨大な蛇〉に首を嚙みちぎられ、以降、窒息や幻覚に襲われるようになるのだ。それを機に透は自衛隊を辞め、タイで観光案内の仕事に就く。誰も彼が天才的なパイロットだとは知らず、透はすべてを諦めたような境地に達していた。だが、空を飛びたいという想いは消え去ってはいない。その背後には、謎の蛇の正体を突き止めたいという願望があったのだろう。

 本書は『トップガン』×三島由紀夫、なんて形容もされている。なるほど、安永透という名前は、三島由紀夫の遺作『豊穣の海』にも登場するし、三島へのオマージュ的な展開や設定が随所に顔を出す。著者の佐藤究氏はインタビューで〈三島作品には空の描写が非常に多く、あれがアニメでよく夏空が描かれる源流〉であり〈その絶対性や官能を空とか機械を通じて描けないか〉と思ったそうだ。

 だが、三島の本に触れたことがなくても、本書は面白く読める。飛行機にまつわる膨大な専門用語も並んでいるが、それにひるむこともない。むしろ、それらの用語に慣れていないほうが、こんな世界があったのかと新鮮に感じられるはずだ。少なくとも、筆者はそうだった。そして、三島の作品を無性に読み返したくなるのだ。

 巻末に記された参考文献は60冊を超えている。その中には、航空工学はもちろん、仏教や密教の専門書、更には『ベンガル語基礎1500語』なんて参考書もある。透が赴いたバングラデシュの公用語を理解したうえで、執筆を進めたかったということか。また、佐藤氏は、テーマごとに資料や写真をコラージュした自作ノートを作成。その数は『テスカトリポカ』執筆時と同様、計5冊に及んだそうだ。

 結末にも少し触れよう。透は10年以上前に墜落したF-35Bがバングラデシュの奥地に眠っていることを嗅ぎつけ、知人に修理を施してもらう。透は最終的に同機で飛び立ってゆくのだが、その目的や行く末は明確には記されていない。これは、読者が想像力の翼を広げるための意図的な方策だと思う。透もまた、重力というしがらみから自由になるために、最後の飛行へと至ったのではないか。そんなことも想わせる鮮やかな幕引きだった。

文=土佐有明