山崎貴監督「ゴジラを文芸作品にしたかった」エンタメ映画を作り続けた監督が『ゴジラ-1.0』で“少し先に進みたい”と思った理由とは?【山崎貴インタビュー】

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公開日:2023/11/27

山崎貴監督

『ゴジラ-1.0』が、公開3日間で興行収入10億円を超える大ヒットスタートを切っている。本作の監督・脚本・VFXを務めた山崎貴監督はダ・ヴィンチWebの単独インタビュー「『シン・ゴジラ』のあとに『ゴジラ』の監督をやるのは、大変なプレッシャー」だと語っていた。

 本記事では山崎監督のロングインタビュー後編をお届けする。神木隆之介さん演じる主人公・敷島の人物造形や、「戦争」をエンターテインメント映画で扱う上での想いを聞いた。

(前後編の後編)

(取材・文=前田久(前Q)、撮影=金澤正平)

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『ゴジラ-1.0』がヒューマン・ドラマになった理由

――前半は「ゴジラ」という存在について色々伺ってきましたが、ここからは登場人物についてお話を伺います。ゴジラに立ち向かう存在も、様々な象徴性を感じさせますよね。

山崎:もっと爪に火をともすような、知恵だけしか武器がない状態で戦わせたかったんですけどね。さすがにそういうわけにもいかず。史実に則って使えるものが半分、前々から自作に出してみたかったものが半分で、ゴジラと戦えるものを出してみました。特に後半に出てくるとあるものを描くのは、長年の夢だったんですよ。アニメーションでは結構描かれているんですけど、誰もこれまで実写にはしていないので、今回がチャンスだな、と。で、そうやって考えていくと、やっぱり自然と、それぞれが背負った物語が作品に反映されていくんですよね。人も、物も、「戦争を生き残ってしまった」という共通点で結びついていく。

――ああ、なるほど……。

山崎:こういう、登場させたものが何を背負っているかも、特に語ってはいないんですけどね。でも、伝わる人たちには伝わると思って、選んでいます。最後に活躍するものも、敷島の思いと合致するんですよね。それぞれのモノが持っている悲しい運命みたいなものにも思いを馳せてもらえると、潜在意識の部分で物語を感じられるものがあるんじゃないかなと思っています。兵器だけじゃなくて、例えば、主人公の敷島が途中で家を増築するじゃないですか。

――はい。

山崎:そのあと、幸せなことをしてるときとか、未来に向かうことをやっているときは、敷島はきれいな、新しいほうの建物にいるんです。でも、後ろ向きなことをやろうとすると、必ずもともとの、ボロいほうの建物にいく。海外の監督はこういう形のメタファーをあらゆるシーンに計算して入れていくんですけど、僕は無意識でやっているところがありました。今回、家の構造が非常に物語を助けてくれているのは、あとから見返して分析してみて気付いたところでしたね。自分でもおもしろかったです。

――作品におけるヒューマン・ドラマの要素の大きさも今作の特徴ですよね。これはなぜなんでしょう?

山崎:今回の「ゴジラ」を文芸作品にしたかったという理由が大きいです。あの時代を扱う作品……それこそ、さきほど名前を挙げた『あれよ星屑』はとても文芸的な作品で、そういうものからインスピレーションを得たというか、「こういうタイプの映画を作りたい」と感じていた気持ちが、影響しています。あとはやはり、怪獣映画、シミュレーション映画として徹底したものを作ることは、『シン・ゴジラ』がやっていますからね。あの作品をヒューマン・ドラマがないことがいいと褒める方は多いじゃないですか?

――そうですね。

山崎:だから、あえてそちらに、ヒューマン・ドラマ重視の路線にいこうと思ったんです。とにかく『シン・ゴジラ』とは違うものにしなきゃいけないとは考えましたね。あの成功例のあとを追うんじゃなくて、違うものを作るべきだろう、と。そこで中途半端にやるのではなく、ガチに「ゴジラ」にドラマの要素を入れていったら、どうなるんだろうか? ということも気になりましたし。

――それでシリーズ屈指の濃厚なドラマ要素が。

山崎:でも、そもそも最初の『ゴジラ』は、ゴジラという現象と人間の営みがしっかり一体化してると僕は思うんです。芹沢博士の心情を思うと、本当に切ない映画じゃないですか。

――あの作品で描かれる三角関係は泣けますよね!

山崎:そうそう。僕にとってはヒロインの山根恵美子は、「元カレが邪魔になったので、今カレを連れてきた女の人」にしか見えないです(笑)。

――わかります(笑)。

山崎:なにせ、「オキシジェン・デストロイヤーのことが世間にばれたら死ぬしかないんだ」と言っている人に対して、「オキシジェン・デストロイヤーを世間に公表してください」と言いに来るわけですよ。それも無邪気に。あの追い詰め方が本当に恐ろしいなと、昔から思ってて。でも、初代『ゴジラ』のそういうところが好きなんです。本当に文芸的な作品とは、ああいうイノセンスな人間の残酷さを描くものだと思いますね。

山崎貴監督

敷島は卑怯者だけど、妙なところで律儀

――少し大げさな言い方かもしれませんが、そうした監督の文芸観、人間観の今作への現れ方も気になります。主人公の敷島が当初、ゴジラを撃てないじゃないですか。ノベライズでは、下手に撃ってゴジラを刺激すると殺されると考えたと説明されていますが、撃たないほうが危ないという発想もありえますよね。

山崎:そこがひっかかるんですね。僕の中ではあれは自然で、敷島は目の前に恐ろしいものが来ると、撃てないタイプの人なんですよ。戦いに向いていない人なんです。

――ああ……。

山崎:戦いに向いてないから、戦争が嫌いで仕方なくて、戦いに行きたくない。当時の風潮からすると、卑怯者ですよね。でも敷島は、同調圧力に抗う気力はある。「撃て!」とまわりに思われていても、撃ちたくない、撃たないほうがいいと思っていたら、撃たないんですよね。

――そう考えると、逃げている典子の前に立ち塞がるけど、取り押さえはしないことを始め、他の行動も腑に落ちます。二人の仲がなかなか進展しないことも……。

山崎:そこで敷島の行動を縛るものは、ノベライズではより厳しいものになるように描写を変えています。他にも、映画を撮りながら、「もうちょっとこうしておいたほうがよかったかも」と思った点は、いろいろと変えていますね。ノベライズは『ゴジラ-0.9』もしくは『ゴジラ-1.1』かもしれません(笑)。

――敷島はもっと背負っているものから逃げようと思えば逃げられて、楽ができるのに、どこか逃げられない。あの人物像が興味深かったです。

山崎:背負ってしまうんですよね。敷島は卑怯者だけど、妙なところで律儀なんです。

――敷島のような人こそが、山崎監督にとって「人間らしい」存在なんでしょうか?

山崎:うーん……多分、自分がそんな感じじゃないかな、という思いがあるんです。もし自分があの戦争の状況に放り込まれていたら、卑怯なこともしそうだし、そのことをずっと戦後もうじうじ考えてもいそう。「俺は人としてどうだろう?」なんてね。人間らしさというより、単に自分のメンタリティがそんな感じなんです。敷島には、そういう自分の感覚が投影されていますね、正直なところ。

ゴジラ-1.0
©2023 TOHO CO., LTD.

――監督はエンタメ映画を撮る志向が強いですよね。そう思うと、主人公をもっとヒロイックにしてしまうとか、あるいは逆に、もっとひたすらかっこ悪くしてしまう判断もありえるのかな、と。そこでご自分のリアルな感覚を乗せていらっしゃるのは、少々意外にも思えます。

山崎:最近は曖昧なものこそが、非常に「映画」的だと思うように変わってきたんです。昔は「『正義』と『悪』」「『いいやつ』と『悪いやつ』」みたいなものが、自分の中でもうちょっとくっきりと分かれていたんですけど……転機は『アルキメデスの大戦』かな。あの映画を撮っていたときに、曖昧なものに対する魅力がわかってきたんです。

――というと?

山崎:『アルキメデスの大戦』は、作ってはいけないものだとわかっていながらも、それにどうしても惹かれてしまう主人公を描いた作品で、撮りながらそここそが「映画」的だと感じたんですよ。曖昧さ……プラスの部分とマイナスの部分が比率を変えながらせめぎ合っている存在が人間じゃないか、と。そうした文芸映画的な、曖昧な存在の大事さを、最近は強く感じているんです。

――監督の中で、エンタメ像が変わったのでしょうか?

山崎:相変わらず作りたいのはエンタメです。でも、エンタメなんだけど、少し先に進みたい……という感じですね。バキバキにアートムービーになってしまってはいけないんだけど、そういう曖昧な部分とか、解釈のしようによってどうにでも捉えられるみたいな行間とか余白みたいなものを、ガチガチのエンターテインメントの中に忍ばせたい。そうやって忍ばせることが、「映画」的な行為なのではないかなと、最近は思っています。まあ、こんなことを言いながら、次の作品ではエンタメと文芸のどっちにぶれるか、わからないですけどね(笑)。

ゴジラ-1.0
©2023 TOHO CO., LTD.