歌を追うごとに「殺人」の真相に近づいていく短歌集? 血生臭い気配と異様な雰囲気漂う額装を楽しむ贅沢な1冊

文芸・カルチャー

更新日:2024/1/18

空間における殺人の再現
空間における殺人の再現』(永井亘/現代短歌社)

「装丁すごない!?」と筆者の友人は言った。「すごいよね」と私は答えた。永井亘『空間における殺人の再現』(現代短歌社)の話である。本書は装丁からして異様な雰囲気が漂っている一冊なのだ。透明なプラスチックのカバーに、白で大きく作者名と書名が入っており、サイズは変形A5ハードカバーの250ページ。その1ページ1ページに異なった挿画が施されている。そして装丁に負けない短歌、挿画があることで引き立つ短歌が、1ページに一首だけ浮遊している。なんて贅沢なのだろう。読む前から期待感が高まってしまう。

「装丁すごない!?」は実際にお手に取って確認してもらうとしよう。内容について書く。本書は22章に分かれ、各章にタイトルが付けられている。序盤は比較的穏やかで、作歌を楽しんでいるのが伝わる作品が続く。

なだらかな波を待つ戸惑いをタンバリンでも表現できる
瞳孔が住所のように遠くから届く日付を覚えておいて
「サーフィンの夜」p19

 面白いのが、ときどき短歌作品と背景(挿画)がシンクロするところだ。例えば〈なだらかな〉は海と空の風景、〈瞳孔が〉は雷のような風景がページに施されている。短歌作品の物語性が強いため、読者の理解が追いつくことができず、意識が拡散してしまいかねないが、挿画があることでギュッと「物語」の中に入ることができる。その仕組みはまるで額装のようだ。

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 そして冒頭の友人と問題になったのが、『空間における殺人の再現』では「殺人は行われたのか?」ということだ。以下、読解していきたい。

口元は途切れた夕焼けを真似て正しい発音で罵った
肝心だから目を遠ざけて蝶につま先を預けて飛び降りる
「くれないレプリカ」p117

「罵った」という対象、「飛び降りる」という示唆が出てきた。本書のちょうど中盤あたりに位置する「くれないレプリカ」は、実際にいた人が何らかの理由で消えたことが詠まれている。

冬が涼しいそんなあなたの思い出の細雪なら忘れてほしい
十月の記憶のような八月の記憶の成功と失敗だ
「サーカス、動物で賑わって」p131

「くれないレプリカ」の次の章では、ある対象への記憶、思い出、対象が消えたことの喪失感を詠んでいる。

カナリアが微笑みながらどの声のあなたが老いていくのだろうか
ゆるやかな心変わりで幽霊に会えなくなった八月のこれから
「幽霊たち」p141

 夢の中のような挿画のページに短歌がぼやけている。幽霊にも会えなくなっていく。

夢でさえめまいは続く焼け落ちるまで隕石を実行するまで
よさそうな掘り出し物を加えても手が殺すのは動物ばかり
「狩りのために7月へ」p151

 このあたりから「殺人」の血生臭い気配がしてくる。しかし、殺すのは「人」なのか?

 ラストの章を引用するのは控えるが、全編を通して「殺人」の決定的な証拠は出てこない。あるのは「対象が消えたことへの痛いほどの喪失感の繰り返し」だ。それこそが「殺人」、つまり「精神的な殺人」なのではないだろうか。

 作者本人に登場していただこう。「現代短歌 2023年7月号」に収録されている瀬戸夏子とのトークセッション「わたしは誰のために短歌を書き、歌集を出すのか?」で、永井はこう述べている。

瀬戸:自註に「『短歌』は情弱であるべきで、叙情の歌を閉塞するものとは」ってあるんですけど、どういうことですか。
永井:タイトルの「殺人」という言葉のもつ暴力性とも関連するんですけど。誤解されそうですが、ここでいう「殺人」は被害者の言葉です。
瀬戸:加害者の言葉ではないということ?
永井:被害性。10年代の短歌の世界から殺された、みたいな感覚がつねにあって。自分の好きな短歌、自分の短歌も含めて、叙情的な短歌がまったく評価されなかったなという印象がある。(後略)

「殺人」は短歌史とも関係があった。10年代の短歌とはどのようなものだろうか。筆者の本棚から三首挙げる。

〈青空に浮かぶ無数のビー玉のひとつひとつに地軸あるべし〉(山田航『さよならバグ・チルドレン』2012年)
〈秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは〉(堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』)2013年)
〈はつなつの光を蝶の飲む水にあふれかえって苦しんでいる〉(服部真里子『行け広野へと』2014年)

 永井はこう続ける。「10年代の短歌は単一的な、同調的な態度に見えるけれど、わたしは文法を使えて短歌をつくれること自体がマジョリティじゃないかって思っているところもあって。情報に弱いところからいかに短歌を構築していくか、というところに価値があると思う」、短歌は情弱であるべき。それは短歌の「文法が使える」人だけではなく、短歌を本当に「必要としている」人に届けるための手段だ。

『空間における殺人の再現』は、実験的な歌集として純粋に楽しめるのはもちろん、短歌史においても評価されるべき一冊だろう。過去にもたらされた喪失感、そして批判を滲ませ、新たな読者へと両手を広げているのだ。

文=高松霞