なぜ登山から名文が生まれるのか? ヒマラヤの大雪崩から生還できた理由などを「山と溪谷」元編集長の神長幹雄氏に聞いてみた

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更新日:2024/1/24

山は輝いていた 登る表現者たち十三人の断章(新潮文庫)』(新潮社)は、『花の百名山』の田中澄江、『アルプ』の串田孫一といった山の大らかな表情から、長谷川恒男や小西政継、そして山野井泰史といったクライマーの険しく危険な山の表情まで、珠玉の山の名文十三篇を編んだ文庫アンソロジーである。本書を編んだのは「山と溪谷」元編集長の神長幹雄氏。山に登る当事者がなぜこれほどの名文を数多く残しているのか。山登りと表現について話を聞いた。

(取材・文・撮影=すずきたけし)

神長幹雄氏

手書き原稿の味わい|田中澄江「高尾山・フクジュソウ」

――『山は輝いていた』は田中澄江さんや串田孫一さん、山野井泰史さんなど錚々たる方たちの名文に神長さんが解説を添えている構成ですので、神長さんの解説に沿ってお話をお聞かせいただければと思います。

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 まずは第一章の田中澄江さんの「高尾山・フクジュソウ」ですが、解説で田中さんの直筆の原稿から執筆時の様々な思いを神長さんが感じ取っていたことがとても興味深かったです。現在では多くの人がパソコンで文章を書いていますが、編集者である神長さんは直筆原稿からどのようなことを感じ取っていたのでしょうか。

神長幹雄さん(以下、神長):原稿をもらって読ませてもらうときが、編集者の醍醐味ですよね。著者の原稿をいちばん最初に読めるんですから。あの当時(1970年代)はみんな手書きで原稿用紙に書いていましたから、文字や書きぶりに著者の性格が出るわけです。きっちり書いている人や書き足しの多い人などさまざまでした。田中澄江さんの原稿は、挿入や削除が多くて、元がわからないくらい(笑)。当時3年間くらいの連載でしたから担当者が変わるんですけれども、やっぱり最初はみんな読み込むのに苦労していました。僕も最初、読ませてもらったときは、ちょっと苦労しましたが、慣れてくれば読めるようになりました。

――何度も手直しされている原稿を見ることで、田中さんがいろいろなことを考えていたことが神長さんに伝わってくるんですね。

神長:田中さんは書いているうちに発想がどんどんふくらんでいくんですよ。だから自分でももどかしくなって、書き加えたり、削ったりしていた原稿だったんですね。文字が躍っているような原稿を見ると、あれも書きたい、これも書こうという気持ちが前面に出てくるでしょうね。そういう原稿から伝わってくる著者の思い、味わい深さをすごく感じていましたね。当時はみんな手書きの原稿で、串田(孫一)さんは原稿用紙のひとマスひとマスに丁寧に書いていた記憶があります。北のアルプ美術館(北海道斜里町)に串田さんの手書き原稿が並んでいますが、それを見るとやはり味わいある原稿ですよ。

文芸誌『アルプ』のこと|串田孫一「島々谷の夜」

――串田孫一さんは「島々谷の夜」が第二章に収録されています。夜の山の中の暗闇を言葉にしていく串田さんの文章の美しさに、とても感動しました。この作品を選んだ理由を聞かせてください。

神長:最初から串田さんを取り上げさせてもらおうと思ったときから、『山のパンセ』(串田孫一の随筆集)から選ぼうと思っていました。「島々谷の朝」も良い原稿ですが、やっぱり「島々谷の夜」は光景の細部まで目に浮かぶよう表現されていたと思います。

――「島々谷の夜」は本当に素晴らしくて、読み終わってまた頭から読み返してしまいました。串田さんといえば山の文芸誌の『アルプ』(創文社から1958年に創刊)が有名ですが、登山の世界において『アルプ』はどのような存在だったのでしょうか。

神長:『アルプ』がなかったら、今の山の文学は違ったものになっていたかもしれません。アルプが創刊された頃は登山界にとって象徴的な時代なんです。1956年2月に朝日新聞で『氷壁』(井上靖/新潮文庫)の連載が始まり、5月に日本山岳会がマナスル(標高8163m)に初登頂した。それによって爆発的に登山ブームが起こりました。その2年後の1958年に『アルプ』が創刊され、時を同じくして『岩と雪』(クライミングに特化した山と溪谷社刊行の雑誌)が創刊。第2次RCC(先鋭的クライマーの組織)も創設されました。

 とても硬派な雑誌だった『岩と雪』に対して、『アルプ』は低山指向で文章表現をとても大切にした雑誌で、串田さんじゃなきゃできなかったことだと思います。

世界のレベルとは|小西政継「岩と氷と寒気との闘い」

――小西政継さんの「岩と氷と寒気との闘い」は小西さんの力強さを文章から感じました。小西さんは日本の登山のレベルを大きく引き上げたとありますが、当時(1960年代)、登山における日本と世界のレベルの差とはどのようなものだったのでしょうか。

神長:レベルは全然違う。何十年もの差があったと思います。日本の場合、1964年の海外渡航の自由化とともに、多くの人たちが夏のヨーロッパアルプスを目指すようになりました。みんなヨーロッパのクライマーの記録をなぞるんですね。でも、結局それはヨーロッパの後追いでしかない。この時点で世界とかなりの差があったんじゃないですかね。こうした風潮に対して小西さんはアルプスの一般ルートを「夏じゃ全然ダメだ」って言って、いきなり最初から冬季、それもマッターホルンの北壁を目標に掲げました。大きな課題を課して挑んだわけですから(1967年2月7日に遠藤二郎・星野隆男とともに登攀に成功)、その考え方は飛び抜けていましたね。

――そうやって日本の登山を世界レベルまで一気に引き上げたのが小西さんだったわけですね。

神長:小西さんの「より厳しく、より高く」というアルピニズムの基本は本なんですよ。特にアルプスのクライマーたちの初登攀の記録を読みまくっていました。彼はグランド・ジョラス北壁(1970年)に植村直己さんと山学同志会の後輩たちと一緒に行って凍傷で両足指と左手の小指を失っているんですが、リハビリ中はずっと本を読んでいたんですね。未邦訳の本もあったので、辞書を引きながら原書を読んでいたんです。追いつくだけじゃダメだ、ヨーロッパの先を行くような登攀じゃなきゃダメだという彼の考えは、ヨーロッパの最新事情を本から吸収していたから生まれたんだと思います。

――神長さんにとって小西さんはどんな存在でしたか。

神長:いろんなところで助言を受けました。登山の世界でなにか問題が起きたときなど、「ご意見番」のように原稿を書いてくれましたね。小西さんが言うことで、誰もが納得してくれるんです。

――小西さんといえば山学同志会が有名ですが、相当厳しい山岳会だったんですか。

神長:厳しかったですね。小西さんの頃の山学同志会は冬の谷川岳は何点とか全部点数を決めて点数制度を設けていて、点数基準に満たないと正会員になれないんです。あと、他のクラブ員と一緒に登っちゃいけないとか。でも、後輩思いで気持ちはとても優しい人でした。それで後輩がずいぶん育ってきました。小川信之さんや坂下直枝さん、川村晴一さんを育てたのも小西さんです。

神長幹雄氏

記憶力の凄さ|山野井泰史「生還」

――第五章の「生還」は、沢木耕太郎さんのノンフィクション『凍』としても有名な山野井泰史さんと妙子さんのギャチュン・カン(ヒマラヤの難峰)での壮絶なエピソードですが、山野井さんの山との向き合い方というのはどのようなものなのでしょうか。

神長:山への向き合い方でいえば、山野井さんの記憶力に尽きると思います。あのギャチュン・カンの難しいルートを生きて帰ってこれたのも、登った際のルートを記憶していたからだと思います。登山家にとって、記憶力のあいまいさは致命的なものではないでしょうか。

――山野井さんの文章はすべてが詳細でした。

神長:その記憶力があったから、沢木さんの表現力によって『凍』も生まれたと思います。

なぜ登山から名文が生まれるのか

――本書は他にも素晴らしい文章がたくさんありますが、登山という行為からなぜこのような素晴らしい言葉、文章が生まれてくるのでしょうか。

神長:山が本来持っているものではないでしょうか。山ってすごいですよね。美しいし、感動します。富士山を登ればみな感動して帰ってくるでしょう。そもそも山が持ってる素晴らしさがあります。その素晴らしさを表現したいと思うのは、自然なこころの動きではないでしょうか。感動すればそれを表現したくなる。山に登ることは、重力に逆らいながら時間を使っているわけで、ある程度の時間、気持ちに余裕があれば必ず何かを思考しているわけです。だから考えたことを記録に残したくなるし、表現したくなるはずです。スポーツのなかでも山の文学といえば、当人たちが文章を書いて表現したいと思うことは、自然な流れ、こころの動きではないかと思います。

――たしかに田中澄江さんや串田孫一さんは文学的だったり、山野井さんみたいに描写力を重視したりと、当事者からの言葉の凄みを感じます。あと中嶋正宏さんの「遺稿」も実にインパクトがありました。

神長:そうですね、やはりこころの動き、いわば哲学のようなものですね。彼は自己の内面を追求しながら、外に向かってもアグレッシブに挑戦するという二面性をもっていました。思索と行動に矛盾がない、とても珍しいケースだと思います。あんな人はなかなか出てきませんね。

――神長さんも解説で中嶋さんのことを「思考は内面に向かうと同時に、クライミングという行為は強く外にも向かう」と書かれていました。

神長:中嶋さんのすごさはそこにあると思います。外に向かっても闘っていける人ですね。

神長幹雄氏
中嶋正宏「遺稿」が所収される『完結された青春』(山と溪谷社)

山の文章・活字のこれから

――今の時代、登山も動画を通じて多くの人と共有する時代となっていますが、それはあくまでも登っているのを第三者が客観的に見ているだけとも言えます。そう考えると先ほど神長さんがおっしゃった、当事者による表現としての文章はますます重要になってくると思います。

神長:希望的要望になるかもしれませんが、デジタル化ですべて可視化できるだろうという時代にこそ、活字の強さを信じたいと思います。動画は早送りで見られたり、一度見たとしても、それきりでなかなか心に残りません。一方、活字は読みながら自らの頭で景色や人の体験を再構築するわけですから、そこには必ず自分というものがかかわってくる。また表現する方も、自分の経験や思いをよりリアルに伝えようと、必死に考えるので、結果として、“残るもの”が生まれると思います。

 あらゆる事象のテンポが速くなり、かつ大量の情報があふれかえる時代においては、記録を記憶することはますます難しくなる。だからこそ、活字を通じて記憶するということは一層重要になってくるでしょうし、そこにこそ活字の強さがあるんじゃないか、と思っています。活字は必ず残るし、残さないといけないと思います。

『山は輝いていた―登る表現者たち十三人の断章―』
山に登ることとは、何かを表現すること――。田中澄江は高尾の花に亡き父を重ね、串田孫一は闇夜の谷で思索に遊ぶ。深田久弥が死の際に見た早春の峰の光景、8000メートルの頂を望み続けた長谷川恒男の熱情、山野井泰史の生還を支えた不屈……。静かな山旅から、命を削る凍てついたヒマラヤの氷壁まで、「山と溪谷」元編集長が登山史に刻まれる名文を厳選して探る、それでも人が山に登る理由。

神長幹雄
1950(昭和25)年、東京生れ。信州大学卒。大学在学中に休学し、2年弱、アメリカに滞在。1975年、山と溪谷社に入社し、「山と溪谷」編集長、出版部長などを歴任。山岳雑誌、山岳書を編集するかたわら、多くの登山家と親交を結ぶ。海外取材の経験も豊富で、個人的にも60カ国以上を旅する。著書に『豊饒のとき』『運命の雪稜 高峰に逝った友へのレクイエム』『未完の巡礼 冒険者たちへのオマージュ』がある。2023(令和5)年、共著『日本人とエベレスト 植村直己から栗城史多まで』で、第12回「梅棹忠夫・山と探検文学賞」を受賞。日本山岳会会員。

神長幹雄氏