露天風呂でリラックスするため、ある言葉を連呼? 疲れた日や寝る前に読みたい心をほぐされるイラストエッセイ集
PR 公開日:2023/12/11
三好愛さんのイラストとはじめて出会ったのは、haru氏によるエッセイ『ぼくが13人の人生を生きるには身体がたりない』を手に取った日だった。本書の装画を三好さんが担当しており、やわらかな輪郭と、書籍の内容にリンクする表現力に惹かれた。そんな三好さんが日々の何気ない記憶をしたためたエッセイ『ざらざらをさわる』(三好愛/双葉文庫)が発売された。晶文社から出た単行本が3年を経て、双葉社から文庫化されることとなった。
本書の魅力は、著者独特の視点を楽しめるエッセイと、文章の合間に差し込まれる優しいイラストである。著者のイラストは、輪郭が淡くぼやけていることが多い。その線のやわらかさが、見る者の心をそっとほぐしてくれる。
本書の「単行本あとがき」で、著者は次のように語っている。
“この本に収めた文章は、私が今まで通り過ぎてきた記憶のざらざらとした部分、なめらかには進めなかったけれど、とんでもないでこぼこでもなかったな、という部分をふと思い出し、手ざわりを確かめてはああこんな感触だったか、と確認してまた通り過ぎるようにして書いてきたものです。”
“とんでもないでこぼこ”は、大方の人にとって、人生においてそう何度もあるものではない。だからこそ、希少な経験ほど脳裏に強く焼き付いて離れないし、その体験を周囲に伝えたくなったりする。しかし本書は、その真逆をいく。日常に溶け込み、あっさりと忘れられてしまうであろう記憶。ざらざらとした感触はあれど、痛烈な痛みや焦燥を伴わない記憶。そういったエピソードに焦点を当て、著者の言葉通り「手ざわりを確かめながら」丁寧に綴られた作品である。
一編の文章は短いが、その一つひとつに著者が通ってきた道のりが詰まっている。同級生による「呪いの言葉」、美術大学時代の思い出、「描くこと」そのものについてなど、収録されているエピソードは実に幅広い。ここでは、その中で特に共感したものを2つ紹介したい。
1つ目は、「お願いリラックス」と題されたエピソードについて。著者は、リラックスを目的としてたびたびスーパー銭湯に赴く。しかし、どういうわけか湯船に浸かった途端、さまざまな疑問や翌日のタスクなどが脳内に湧き上がってしまう。結果、著者は以下のような行動に出る。
“過去にも未来にもとらわれないのはかなり難しいことで、今この瞬間しか感じないことを自分に強制するために、空きれい、空きれい、と心の中で連呼したりする”
露天風呂でリラックスするために、「空きれい、空きれい」を連呼する。それは果たして、「リラックス」と呼べるのだろうか。そんな疑問が頭をもたげるが、自身も身に覚えがありすぎて、著者の行動に頷くよりほかなかった。ちなみに私は、「今ここ、今ここ」と連呼する。過去のしがらみに心を持っていかれるたび、魂鎮めのようにこの念仏を唱えるのだが、その時点で「リラックス」からは遠ざかっているように感じる。「お願いリラックス」――切実なタイトルの本章は、リラックスが苦手な人にとって、「自分だけじゃなかった」と安堵できる一編であろう。
2つ目は、「言葉の性格」の章を紹介したい。ここでは、主に「書く言葉」と「話す言葉」の違いについて綴られている。一度口から出してしまった言葉は、もう「なかったこと」にはできない。その切実さを、著者はこのように物語る。
“相手にしゃべってしまったことは巻き戻せないから、巻き戻したい気持ちはただの後悔になります。”
「話す言葉」はやり直しがきかない一方で、「書く言葉」は何度でも推敲できる。同じ「言葉」なのに、伝達方法が違うだけで難易度は驚くほど跳ね上がる。会話の応酬を「高度な反射神経が要求されるむずかしいスポーツのよう」だと著者はいう。一字一句、同意しかない。「話す」のが苦手だからこそ、私は「書く」を生業としている。
文庫化に伴い、著者の感じ方や社会の変化に合わせて、文章の改稿と共に挿絵もわずかながら変更されている。著者ならではの「書く」✕「描く」の相乗効果を味わえる本書は、疲れた日や就寝前など、ひと息つきたいタイミングでそっと頁を開きたい。絵に癒やされ、文章にほぐされる。そんな一冊を傍らにおいて、自分の中にあるざらざらの手ざわりを確かめたなら、きっと翌日には、心がなだらかになっているだろう。
文=碧月はる