死者の審判を司る女性の美貌にうっとり。死者として訪れていた老人との問答が始まろうとしていた/ファラオの密室⑤
更新日:2024/1/19
『ファラオの密室』(白川尚史/宝島社)第5回【全7回】
舞台は、紀元前1300年代前半、古代エジプト。死んでミイラにされた神官のセティが、心臓に欠けがあったために冥界の審判を受けることができず期限付きで地上への復活を許されたタイミングで、地上では前代未聞の大事件が起きていた。なんと、ピラミッドの密室に保管されていたはずの先王のミイラが、棺の中から消えていたのだ…。これはエジプト全体を揺るがす事態だった。
2024年・第22回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作の『ファラオの密室』は、タイムリミットが刻々と迫るなか、地上に復活した神官セティが、エジプトを救うため、ミイラ消失事件の真相に挑むミステリー小説です。
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小舟が岸へとたどり着く。岸辺には現世と同じく、パピルスやナツメヤシが生い茂っていた。セティは小舟に巻かれた舫い綱を背の高いパピルスに結わえつけ、固定する。アンクのほか、棺の中から取り出した護符やスカラベのブローチといった副葬品を身に着けると、頭に日除けの布をかぶり、川を背にして歩きはじめた。
水辺であるにもかかわらず、獣の姿はない。人影はもちろん、誰かが住んでいる痕跡もなかった。セティはひたすら歩を進めた。川は現世と冥界が交じり合う境界線だ。死者の国は、砂漠にこそある。
歩き続けるうち、草木は減っていき、黒い砂の世界が姿を現す。あたりは暗く、ほとんど日差しがないように見えるのに、大気は熱を孕み、砂は焼けるようだった。義足でも素足と同じように火傷しそうな熱を感じ、パピルスでサンダルを編めばよかった、とセティは後悔を抱く。うだるような熱気に耐えながら、前へ前へと歩いていく。
ほどなくして、砂漠の地平線に建物の影が見えた。まっすぐに歩いて向かうと、普段見ている蜃気楼とは逆で、その建物は急速に近づいてくるように思えた。そして、その建物の大きさに気づいたとき、セティは愕然として歩を止めた。セティもよく知るクフ王の王墓、それ自体も見上げると首が痛くなるほどに大きいが、今目にしている建物はさらに巨大で、天を衝く柱のように思えた。また、同時に建物の左右にも壁が続いていることに気づく。要するに、すべての死者が通るべき関門なのだろう。
さらに一時間ほど歩いて、セティは建物にたどり着いた。石造りのそれは、見上げても上端が見えないほどの威容を誇っている。外壁には神像が彫られており、それを祀る神官の壁画も描かれているのを見て、セティはこの建物が神殿であることを確信した。そもそも石で造られる建物は、永遠に残るべき神殿か墓しかありえない。
ひととおり外壁を眺めてから、神殿に足を踏み入れた。扉はなく、前面に設けられた大きな穴がそのまま回廊になっている。回廊の壁にも神々を祀る壁画が描かれていた。回廊を進むごとに、壁画にもっとも大きく描かれている者はラー、オシリス、ホルス、マアト、と移り変わっていく。より大きく描かれる者ほど地位が高いので、この神殿はアテンの神殿ではないということがわかり、セティはほっと胸を撫で下ろした。
先王アクエンアテンは、十年前から唯一神アテン以外の信仰を禁止し、ほかの神の存在を否定した。息子であり新たに玉座についた新王トゥトアンクアテンも、その立場を支持している。つまり、冥界を治めるオシリスや、死者の審判を行うマアト、太陽神であるアメン・ラーも存在しないということだ。
王の言葉を疑うなど考えられないことだったが、幼いころから神々への信仰を捧げてきたセティにとって、簡単に割り切れることではなかった。神官書記の職を得てからも、明確な答えを持たず悩みながら、表向きはアテンを信仰しつつ、密かに古来の神々を信奉してきた。だからこそ、その姿をこの目で確かめられるかもしれないと思うと、セティは期待に胸を躍らせた。
セティはまっすぐな回廊を歩き続ける。振り返っても入り口が見えないくらいに進んだところで、一つの部屋に行き着いた。
そこは開けた、大きな四角い広間であった。
天井は高く、窓はなく、四方をなんの装飾もない無機質な石壁に囲まれている。部屋の四隅には燃える松明が煌々と焚かれ、どこか入るものを圧倒するつくりをした部屋だった。部屋には先客があり、セティはようやく人の姿が見えたことに安堵を覚えた。
広間の手前には三列に並んだ長い木のベンチ、その前に演台があり、ひとりの老人が背を向けて立っている。それに向かい合う正面にはひときわ高い座が一つ。まるで、王宮の裁きの間にある法廷のようだ。
そして、なによりセティが目を奪われたのは、司直の席に座しているひとりの女性の美貌であった。
孔雀石を砕いたのだろう、鮮やかな緑のコールで切れ長の目を縁取り、少し突き出た細い唇は朱で染めている。宝石のビーズを並べたネックレットと黄金のイヤリングは松明の光を反射して輝き、肩で揃えた瑞々しく艶やかな黒髪にダチョウの羽根を一挿し。
それはまさしく壁画に見る、マアトの姿そのものだった。
そして、セティの視線はその前に置かれた一つの秤に注がれる。その秤は小さいながらも、目を惹きつけ逸らせないような、異様な存在感を放っていた。
「我、真実を司る神、マアトが問う――」
女神が低く、厳かな口調で告げる。その声は広間に反響し、まるで天上から降ってくる託宣のようだった。声を向けられた老人はおろか、その後ろにいるだけのセティも、居住まいを正さずにはいられないような声。
そして、マアトが次に口を開こうとする瞬間、
「失礼――こちらへ」
と耳元で囁かれ、セティは思わず飛び上がった。慌てて振り向くと、女性がひとり、無表情で空いたベンチを指し示している。
歳のころはセティと同じ二十なかばに見えた。白のキルトを身にまとい、長髪を二つ分けの三つ編みにしている。装飾の類は着けていないことから、おそらく従者であろうが、それでもどこか人間離れした神性を感じるのは、浅黒い肌は陶器のような透明感があり、また彼女の服が砂でまったく汚れていないせいだろう。
セティは指示に従い、足音を殺して歩き、ベンチに腰を下ろす。その間に、老人とマアトの問答が始まっていた。
<第6回に続く>