島本理生『2020年の恋人たち』が加藤シゲアキの解説付きで文庫化! 「母の反対側へ進もうとすればするほど、離れられなくなる」
PR 公開日:2024/1/17
人と繋がり続けるために、語る人と黙る人がいる。小説『2020年の恋人たち』(島本理生/中央公論新社)の主人公・前原葵は後者だ。彼女は他人に期待しない。幼い頃から自立することを強いられる環境で育ってきた彼女は、自然と人に頼らず解決するすべを身につけてきたし、心を許した相手には人一倍感情を注いでしまうからこそ、傷つかないように心に蓋をする。誰を相手にしても、せいぜい刃がかする程度の距離感を保って、踏み込まないよう、慎重にふるまう。
本書は、葵が交通事故で亡くなった母親が遺した、開店準備中のワインバーを引き継ぐ物語である。長年、妻子ある男の愛人だった母は、まるで親らしくなく、葵に傷を負わせた最初の一人だ。決裂しているわけじゃないけど、心からわかりあえたわけでもない。そんな宙ぶらりんの状態で永遠の別れを迎えた葵が、会社員のかたわら店をやろうと決めたのは、自分たちをあしざまに言う義理の兄――母の恋人の息子に対する反発からだ。けれど、それは期せずして葵にとって、もういない母と対話を重ねる行為にもなっていく。
〈母の反対側へ進もうとすればするほど、葵は母から離れられなくなり、紛れもなく娘であるという繋がりを濃くしてしまう〉というのは、加藤シゲアキさんの書いた解説の一節(めちゃくちゃ読み応えがあるのでぜひ本編とあわせて読んでほしい)。部屋から出てこなくなってしまった同棲中の恋人・湊。母をずっと支えてきて、葵にも執着を示す幸村という男。ワインの勉強を通じて知り合った、瀬名という既婚者の雑誌副編集長。窮地を助けてくれた、近所で日本料理店を営む海伊(かい)。葵の周辺には常に、生前の母と同様、男性の影がつきまとう。みんな葵に手を差し伸べ、彼女の力になりたいと願うけれど、その関係はいつもどこか対等ではない。
家族や恋人というのは、いちばん安心できる、守ってくれる存在なのだと思っていた。でも、そういう相手にこそ用心しなければいけないということは、誰より深く心をえぐられる。それは男性に限った話ではなくて、母はもちろんのこと、親しくしている叔母の弓子や、懐いてくれる義理の妹・瑠衣との間にも、葵は決して溶け合うことのできない壁があることを突きつけられる。でも、それでも、彼女が人を信じ続け、傷ついても立ち上がり続けるために必要だったのは、家族でも恋人でもない存在だった。
恋なんて、してもしなくてもいい。家族のことも、愛しても愛さなくてもいい。どちらでもいいから、自分にとってよりよい方を選ぶ。そう、強く決断できる自分であるため、葵の背中を押してくれるのが、彼女が決してパートナーには選ばない存在であることが、とても尊いと思う。
葵の店はやがて、東京オリンピックで賑わうはずだった千駄ヶ谷で、2020年のコロナ禍を迎える。文庫化にあたって加筆修正が行われた本作は、単行本で読んだときよりも、飲食店の風景を通じて、コロナ前と後の変化が浮かび上がるものにもなっている。出口の見えない暗闇をさまよう苦しみをいっせいに味わった私たちには、葵のもがきながら前進していく強さが、いっそう響くだろう。
文=立花もも