4歳の頃に小指と薬指の半分を事故で失った男が吠える。世界を呪い、地球全体にガンを飛ばす中学生の物語

文芸・カルチャー

公開日:2024/1/27

無敵の犬の夜
無敵の犬の夜』(河出書房新社)

 ありとあらゆることに苛立ち、世界を呪い、地球全体にガンを飛ばしているような中学生。それが、小泉綾子氏『無敵の犬の夜』(河出書房新社)の主人公・界である。本書はそんな彼の中二病的で痛々しい心性が直に伝わってくる、エモーショナル極まりない名著だ。

 九州の片田舎に暮らす界は、4歳の頃に小指と薬指の半分を事故で失った。そのことについて担任教師の半田に授業でいやがらせをされた彼は、不登校になってしまう。地元の不良たちとつるみながらも鬱屈とした日々を送る界は、ある日、工業高校に通う「橘さん」と出逢うことに。橘を頼れる先輩として尊敬し、ふたりは頻繁に顔を合わせるようになる。

 だが、界はどこかやりきれなさや不満を抱いていた。界には年長者への敬意と反発がないまぜになった葛藤があり、著者はそれを巧みな言葉遣いで掬い上げてゆく。ヒップホップ的に言うなら、出し惜しみのないパンチラインの連続である。

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 橘は憧れの地である東京に何度か赴き、東京の凄さを熱っぽく語るが、界にはぴんとこない。橘は、現地で有名なラッパーの彼女と浮気しているという。よくよく聞くと彼氏からの報復を恐れて戦々恐々としている様子だ。界は橘に代わってその彼氏を殺しに東京に赴くが、結局、自分の無力さを噛み締め呆然とするのみだった。またもや空振りで終わった。そんな虚しさが行間から滲み出る。

 本当は誰にも負けたくないのに、ビビって喧嘩もできない。誰かに笑われないか、見下されていないか、常におどおどしている。自分の存在意義に悩み、のたうちまわる界。杏奈という美人の彼女ができるのに、いざセックスに誘われると怖気づいてしまい何もできない。その際の界の心理描写がまたもや秀逸だ。

田中杏奈のおっぱいの山だけが、この世界に取り残された唯一の天国だった(中略)こいつのおっぱいを見ながら、堅そうなウエディングケーキに歯を立てて食らいつきたい。なんか今、俺は甘いもんにかぶりついてそん中に埋もれたい。

 その後、界は〈グラビアとかAVで観るオッパイは死んどる。でもお前のはバリ生きとるちゅー感じがする〉とも杏奈に言う。あまりにも独特な詩的飛躍に圧倒された。

 界はどこにもぶつけようのないイライラを持て余し、自分が何者か分からず、この先何者にもなれないと思い込んでいる。まだ何者でもないということは、これから何者にでもなれることと表裏一体だと思うが、界の絶望は思いのほか深い。〈この先俺は、きっと何もなれんと思う。夢の見方を知らんけん〉と言うほどに。

 物語の舞台となるのが九州の片田舎なのもポイントだ。界もその周囲の人も、地方都市ならではの閉塞感に倦み、うんざりしている。同地の重く淀んだ空気を著者は実にリアルに表現しており、その筆さばきにも唸らされた。

 なお、牽強付会を承知で言うと、本書には、筆者が溺愛するTheピーズというバンドの曲に近い空気を感じた。読後感が、そのTheピーズの歌詞を引用した絲山秋子氏の『逃亡くそたわけ』や、その続編的な『まっとうな人生』に通底している、というのはあくまでも手前勝手な想いこみではあるが……。

 肝心の幕引きはどうか。晴れないモヤモヤを誰にぶつけたらいいのか分からずに、常に悶々としていた界は、終盤である蛮行に出る。一大決心の末、偶然出逢ったある女性たちに、思いも寄らぬ行動を見せるのだ。その後の展開は伏せるが、曖昧ながら不思議な余韻を残すラスト数ページも含め、最後までパーフェクトな小説だと感じ入った。

 ちなみに本書は、文藝賞の審査員である角田光代氏、島本理生氏、穂村弘氏、町田康氏による満場一致で同賞の受賞が決まったという。この内容なら当然だろう。誇張でも大言でもなく、筆者にとって生涯の一冊になるほどの大傑作。類稀なる才能の鮮烈な登場を心から言祝ぎたい。

文=土佐有明