恩田陸の「理瀬シリーズ」最新作『夜明けの花園』。謎多き学園で起こる怪事件の真相とは
PR 公開日:2024/2/9
『三月は深き紅の淵を』(恩田陸/講談社文庫)に収録された「回転木馬」からはじまった、恩田陸氏による「理瀬シリーズ」。ファンの間で根強い人気を誇るシリーズの最新作『夜明けの花園』(恩田陸/講談社)が、このたび上梓された。本書には、同シリーズに登場するヨハンや聖を主人公とした短編を含むスピンオフが全6話収録されている。謎めいた学園を取り仕切る校長の過去、理瀬の子ども時代の記憶など、ファンにとって興味深いエピソードが満載の一冊である。
第1章「水晶の夜、翡翠の朝」は、湿原にひっそりとそびえる全寮制の学園を舞台に物語の幕が開く。本章の主人公・ヨハンが「優雅な檻」と表現する学園は、高額な学費が要るにもかかわらず、一定数の需要が尽きない。訳ありの生徒が頻繁に出入りする校内は、幾つかの“種類“によって生徒が振り分けられている。一つ目の「ゆりかご」は、世間の荒波から逃れ、温室のごとき環境で過ごすことを目的とした生徒。二つ目の「養成所」は、芸術やスポーツ、高度な勉学など、特殊なカリキュラムをこなす生徒。三つ目の「墓場」は、物騒なネーミング通り、「学園から出ることを望まれない生徒」を指す。そして、実際にこの学園からは、たびたび生徒が消える。
生徒が姿を消す理由や状況はさまざまだが、はっきりしているのは、「去った」ではなく「消えた」という点である。湿原に佇む檻に、外部の人間は入ってこない。何らかのトラブルや事故が起きても、警察さえ介入しない。その不自然さに、生徒たちは案外すぐに慣れる。檻の中は、閉塞感と窮屈さに馴染んでしまえば、むしろ「安全な場所」とも言えるからだ。ただし、檻の中で事が起きた場合、逃げ場はない。
前述した第1章では、ある生徒が消える前に、いくつかの不可解な事件が起きる。はじめに起きた事件の被害者は、草むらに仕掛けられた罠にハマり、腹部に石が当たって打撲を負った。次に起きた事件の被害者は、螺旋階段の支柱と照明をつなぐように貼られた針金が首に引っかかり、一瞬ではあるものの、窒息状態に陥った。どちらの仕掛けにも、明確な“悪意”があった。特に2つ目の事件に関しては、命が奪われたとしてもおかしくない事例である。両方の事件に共通していたのは、現場で聞こえたとされる不気味な笑い声であった。その声が「笑いカワセミ」のものに似ていると誰かが言い出し、校内では「笑いカワセミ」にこじつけた悪戯が蔓延した。
事件の真相を探るべく、ヨハンは、聖、憂理、転入生のジェイらと共に話し合いを重ねた。彼らは、学園内における“ファミリー”であった。ここでは、中学から高校までの6学年を縦割りにしたグループが作られ、それを「ファミリー」と呼ぶ。いわば生活共同体である彼らは、多くの時間を共に過ごす家族のような存在だ。万が一次の事件が起きれば、ファミリーの誰かが被害に遭うかもしれない。そんな緊迫感が生まれつつある最中、ヨハンはある書物にたどり着く。ヨハンが手に取ったのは、「わらいかわせみに話すなよ」と題した、サトウハチローの詩が掲載された『日本の童謡』であった。その詩には、こんな一節が綴られていた。
“たぬきのね たぬきのね ぼうやがね
おなかにしもやけできたとさ”
“キリンのね キリンのね おばさんがね
おのどにしっぷをしてるとさ”
1番目の歌詞は、「おなかにしもやけ」。2番目の歌詞は、「おのどにしっぷ」。どちらも、事件に符号する。そして、この歌には3番目の歌詞も存在した。3番目の歌詞になぞらえた事件は、果たして起きるのか。1番目と2番目の事件には、何の意味があったのか。ヨハンが真相に近づくにつれ、彼自身もまた、深い闇の渦に巻き込まれていく。
ほかの章においても、「生き延びた者」と「消えた者」の境目は、ほぼ紙一重だった。現実世界もまた、大抵の場合、結果は偶然の産物に過ぎない。だからこそ、人は足掻く。生きようと、大切な人を生かそうと、足掻く。そのためなら、時に人は、別の何かを奪うことを厭わない。人間の性が炙り出される物語を前にして、「お前はどうする」と問われた気がした。同時に、ある一節がその答えに通じているようにも思えた。深く心に刻まれた一節を最後に置いて、本文を締めたい。
“ここは優雅な檻。中で腐るかどうかは、本人の心がけに掛かっている。”
文=碧月はる