北鎌倉のお屋敷は“和菓子”の工房つき。両親の離婚のきっかけとなった桜餅とは…?『若旦那さんの「をかし」な甘味手帖 北鎌倉ことりや茶話』
公開日:2024/1/27
読んでいるだけでお腹がすいてくるような小説の、唯一の難点は、似たようなものを現実で求めることはできても、まるっきり同じものを食べられないことである。小説『若旦那さんの「をかし」な甘味手帖 北鎌倉ことりや茶話』(小湊悠貴/集英社オレンジ文庫)もそう。桜餅に白玉ぜんざい、栗饅頭に抹茶パフェとおいしそうな和菓子がどんどん出てきて、なんならアジフライや目玉焼きをのせたカレーライスも食べたくなるし、月を見上げながら晩酌までしたくなるというのに、決してその場所にはたどりつけない。くやしい限りだが、それだけ細部の描写がおいしそうだということである。
主人公の秋月都は、家事代行サービスで料理担当として働く25歳。休日の朝は自分のために土鍋で米を炊き、銀鮭を焼いて、ふわふわの卵焼きを会心の出来に仕上げる。そんな、物語冒頭の描写から腹が鳴り、卵焼きには砂糖の代わりに○○を使うといい、という豆知識にほほうと唸る。その時点で、すでに作品にとらわれてしまっている。
その朝食を優雅に味わうまもなく、同僚のかわりに急遽都が派遣されることになったのが、北鎌倉にあるお屋敷だ。住み込みの家政婦がいてもおかしくなさそうな立派なその屋敷に住むのは、各務恭史郎と羽鳥一成という二人の男。「ことりや」を屋号に一成がつくる和菓子を恭史郎が売り込んでいるといい、家事代行の定期契約が決まったあかつきには、もれなく和菓子のデザートがついてくるという。都のような、つくるのも食べるのも好きな人間には願ってもない条件のはずだが、実は和菓子は最大の鬼門。というのも都の父もまた和菓子職人で、仕事がうまくいかなくなったことにくわえ、父のつくる桜餅が母と離婚するきっかけの一つだったからだ。
だが、職人としての一成の姿が、都に幸福な記憶をも呼び覚ましてくれる。ほれぼれするような仕事ぶりを見たあとで、彼のつくる桜餅を拒絶することなどできない。両親の離婚以降、はじめてみずから和菓子を手にとり口に運んだ都は、その甘さに、ずっと冷えていた心の一部分が溶かされていくのを感じる。そうして、北鎌倉のお屋敷に通いながら、あらためて和菓子の魅力にとりつかれていくのだ。
都だけでなく、美しくて繊細かつおいしい和菓子に、登場する人々はみな癒され、読んでいる私たちも一緒に食べたような気持ちになって、胸にあたたかいものがじんわり広がっていく。都の調理の描写をはさむことで、甘いとからいを行ったり来たりするのも憎い。あらゆる方向から食欲を刺激されて、卵焼きをつくってみたくなるし、出先で桜餅を買いたくなる。お屋敷の縁側にも、ことりやの茶房にも、決して行くことはできないけれど、想いをその場所に寄せて、おいしさを味わうことはできる。そんなふうに物語と現実を溶け合わさずにいられない魅力が、今作にはある。
一成の家庭事情も明かされていないし、物語はまだまだ続きそう。つぎはどんなおいしい和菓子(と都の料理)が登場するのか、楽しみである。
文=立花もも