膨大な量の「ラブレター」から学ぶ戦略的な書き方とは? 情報社会の現代だからこそ考えたい、恋と孤独について
公開日:2024/2/8
打ち明けておこう。私は片思いをしている。この恋のヒントになるかもしれない、と考えて、布施琳太郎『ラブレターの書き方』(晶文社)を手に取ったわけである。やや難解で、とっても変で、いつのまにか夢中になって、一晩かけて読み切った。ページをめくる最中は目的を忘れるほどだった。
序章の一文目に〈あなたは誰かと二人になることができるだろうか?〉という問いかけがある。ソーシャルメディアが浸透した社会において「二人」になることは実は難しい。二人での食事の写真を撮り、相手をタグ付けし、ごく短いテキストを書いて投稿する。そうして冷めていく食事、溶けていくパフェ。赤く色づく「いいね」は監視されていることの証だ。
〈本書が捉えようとするのは、すべてがつなげられた社会から脱出して二人の時間を過ごし、その後で、労働や学校、家族といったつながりへ帰っていくことを可能にする世界制作の方法である。〉
「序章 二人であることの孤独」
ラブレターとは、ソーシャルメディアには流出しない、二人だけの孤独である。しかしそれには相手が必要だ。どうやって返信を手に入れたらよいのだろうか。
本書によれば、1950年前後にラブレターを「代筆」する文化があったのだという。戦後のヤミ市から発展した恋文横丁に、古本屋、定食屋、雑貨屋、そして代筆屋が立ち並んでいた。アメリカの軍人と恋愛をしていた「パンパン」たちが代筆屋を利用しており、当時の渋谷で「手紙の店」を営んでいた菅谷篤二は、「結婚か、金か、あるいは純粋なラブであるのか」を見極め、戦略を練るという共同作業をしていたのだという。
〈アメリカに負けたからといって日本の女性がだまされて捨てられるのを見逃すことはできん。これは男と女の戦いですよ。(中略)手紙を毎日書きたいといって女が来ても君の手紙は一週間待てとか、指示するわけです。〉
「第一章 代筆されたラブレター」
ラブレターは、焦ってもいけないし、のんびりしてもいけない。戦略的にラブレターを制作し、相手に送る。返信を待つまでの時間、私は私の孤独に殺されやしないだろうか。あなたは何を思って返信を書き、私に送ってくるだろうか。もしくは、送るのをやめるだろうか。
本書には膨大な量の「ラブレター」が紹介され、解説されている。例えば寺山修司が妻である九條映子に送ったラブレターである。
〈Qの原稿料は、電話したらまだ出ていない。きみからは手紙も電話も来ない。
「猫と女は呼ぶとにげて、呼ばないと近よってくる」というメリメの詩を思い出した。
だから、呼ばない方がいいのかも知れない。
(中略)
さむくなったけど体に気をつけること。
紙上でキスを送ります。〉
「第二章「私」の場所」寺山修司のラブレター第四信より抜粋
布施は〈「そちらはさむいだろうけれど」などと書けば二人の距離が強調されてしまうわけだが、「さむくなったけど」は同じ気候の地域に住んでいれば共有できる事象だ。そうして唐突に距離が克服され、消滅する。〉と書いている。〈こうして寺山と九條は、ラブレターを通じて二人の社会を共同制作し、相手との距離が親密になっていくなかで言葉を尽くした。〉
アーティストのオーリア・ハーヴェイとミヒャエル・サミンが行った、インターネット上でのラブレターの交換、著者の布施が作った「あなたの時計」、そして現代の詩人たちのことば……。そこから導き出せるのは、二人の社会を共同制作させる力だ。ラブレターが生まれ、真っ直ぐに相手へと向かい、やがて返信があったとき、それは社会になる。「一人の孤独」が「二人の孤独」になるのである。
布施は〈未だ、すべてがサンプルである〉と書く。
〈あなたがラブレターを制作するのだ。あなたの手で「二人であることの病い」を知り、そして「二人であることの孤独」を制作するのだ。〉
「第六章 誤変換的リアリズム」
例えば、私が片思いをしているあなたにラブレターを書いて送ったとき、私は孤独だが、あなたが返信を考え、送ろうとするとき、あなたもまた孤独になるのだ。布施に提示された膨大な「サンプル」を前に、ラブとは、ラブレターとは、一体なんなのか、たった一人で考えこみ、どうにか筆をとった。それが本稿である。やがてあなたに届き、返信があるかもしれない。そこから「二人の孤独」が始まるだろう。
文=高松霞