乾燥した死体をすりつぶした材料で描かれた絵。270点以上の恐ろしい美術品から裏の美術史を探る『世界奇想美術館』

文芸・カルチャー

公開日:2024/2/9

世界奇想美術館
世界奇想美術館』(エドワード・ブルック=ヒッチング:著、藤井留美:訳、田中久美子:日本語版監修/日経ナショナル ジオグラフィック)

本書は、いわば裏の美術史案内であり、仮想の奇画珍画ギャラリーだ。

 これは『世界奇想美術館』(エドワード・ブルック=ヒッチング:著、藤井留美:訳、田中久美子:日本語版監修/日経ナショナル ジオグラフィック)の「はじめに」の一文である。この文章が印象に残ったのは、私が裏の美術史が好きだからという理由だけではないだろう。日常生活に飽きたり疲れたりした時、ふっと非現実に飛び立っていける書籍なのではないかと感じたのだ。

目で見てぎょっとしてしまうような美術作品はもちろん、見た目は穏やかでも、背景や歴史を辿れば恐ろしい事実に行きつく絵画は、価値観が変わるほどの衝撃を読者に与える。芸術家の持つ、自分の生きている時代をひっくり返そうとするチャレンジングな精神が伝わってくるからだろう。

本書はフルカラーで、美術品そのものとそれぞれの美術品についての解説文が掲載されている。その数270点以上、読了すると、自分を含めたすべての読者に、もっとも衝撃を受けた美術品は何なのか聞いてみたい衝動に駆られる。私は国内外の美術館巡りや、日本で一世を風靡した『怖い絵』(中野京子/朝日出版社)シリーズが好きで、恐ろしい名画はほぼ知り尽くしていると自負している。しかし本書を読み「甘かった……」と感じざるをえなかった。「奇画珍画」は、日本を含めたこの世界にもっとたくさん存在しているのだ。

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この記事では、本書掲載の「奇画珍画」の中から、見るからに恐ろしい絵画と、見るだけでは恐ろしさがわからない絵画をそれぞれ紹介したい。

エークロのパン屋の伝説

まずは105ページ、『エークロのパン屋の伝説』(1550年頃~1650年)である。このタイトルはヨーロッパに伝わる伝説の名前でもあるそうだ。若返りのために客がパン屋を訪れて自分の首を切り落としてもらい、頭のなくなった首にキャベツを植えて一旦止血、取り外した頭部は整形して持ち主に戻すという内容である。絵画の中央にキャベツ頭の男女が並んでいるだけで驚愕する人も多いのではないだろうか。彼らはエークロのパン屋の客であり、首を切り落とされたばかりで、止血しながら若い頭部をつけてもらおうと順番を待っているのだ。

絵画の右側に目をやると、首を切り落とす直前の客の男と、手をふりあげて男の首を切ろうとしている職人らしき人物がいる。左側はというと、今まさに職人から新しい頭部を胴体につけてもらおうとする頭のない男がいて、床には止血のために使っていたキャベツが転がっている。さらに奥を見ると、切り取った複数の頭部をパンのように扱っている職人たちや、男の頭部を持って不満そうに抗議をしている女性がいる。若返った夫の顔が気に入らないのだろうか。この伝説があった中世ヨーロッパでは、魔女狩りも横行していた。つまり当時はこの若返りの伝説をも真実だと思いこみ、実際に首を切り落とした人もいるのではないだろうかと想像してしまう…。

台所の情景

続いて164ページから165ページ、マルタン・ドロラン作『台所の情景』を見てみたい。穏やかな情景を描いた絵画だ。奥の窓からあたたかい光が差し込み、裁縫をするふたりの女性と、座って遊んでいるひとりの子供が描かれている。服装や部屋の広さから推察すると、恐らく中流階級の家庭だろう。この絵画のどこが恐ろしいのだろうか。そう思った人は、色彩の基調となっている茶色に注目してほしい。解説文によると、この茶色の原料は、「古代エジプトの乾燥した死体をすりつぶしたもの」なのだ。当時から20世紀初頭まで、ヨーロッパではミイラや犯罪者の死体を顔料として使うことが好まれていたそうだ。今は私も行ったことのあるルーヴル美術館に所蔵されているこの絵画、そんな塗料が使われているなんてつゆ知らず通り過ぎている人も多いはずだ。

時代は変化する。常識だったことが非常識になる。現実は非現実に、そして非現実は現実になっていく。日常の繰り返しに疲れたら、ぜひ本書をのぞいてみてほしい。

文=若林理央